誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

夜の酒場のネオンサインのようなチープな輝き/チャールズ・ブコウスキー(柴田元幸訳)『パルプ』ちくま文庫

夜の酒場のネオンサインのようなチープな輝き

チャールズ・ブコウスキー柴田元幸訳)『パルプちくま文庫

一般に、探偵の出てくるハードボイルド小説では、はじめに深刻な事件が起こり、探偵が解決に向けてあちこち動き回り、いくつかの紆余曲折を経ながらも、やがてすっきりと事件の謎を解明し、事件はめでたく解決するという道筋をたどる。

だが、チャールズ・ブコウスキーの『パルプ』は、そんな一般的に思い浮かべるようなハードボイルド小説や探偵ものとは大きく趣きが異なる。事件の依頼が舞い込んできて、主人公の私立探偵ニック・ビレーンが解決すべく動き出すが、「あたかも事件の方がいい加減うんざりしてみずからを解決してしまうような感じ」(訳者あとがきp306)という具合である。

主人公のビレーンの方も、自分で事件の謎を解き明かしたりはせず、深く事件や物事や人物の裏側を追及もせず、とりあえずこれで解決としておこう、という感じなのだ。だから、一般的なハードボイルド小説のような、読み終わったあとのカタルシスは得られないだろう。

読後感は決して良いとは言えない。事件の謎を解いて物事をすっきり解決する類の小説を求めている人には、正直言っておすすめできないタイプの小説だ。何人か登場する依頼人が、そもそもなぜこんな事件や謎をもたらしてくるのかもわからないままだし、その謎も背景も動機(そんなものがあるとすればだが)も、けっきょくよくわからないままだ。

なにもかもがすっきりとせず、本書を読み終わったあとも、本当にこれで良かったのだろうかというビターな後味が、まるで古傷の痛みのようにわたしたちをとらえて離さない。そんなところが、あまたあふれるハードボイルド小説や探偵ものと一線を画し、出版から20年以上を経た今でも、ふしぎな輝きを放っている所以なのだろう。その輝きは、夜の酒場のネオンサインのようにチープなものだが、それゆえにわたしたちの心をやけに魅了する。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

続きを読む

消え去る気配のない雲と降り止まない様子の雨/トマス・ハーディ(河野一郎訳)『呪われた腕 ハーディ傑作選』新潮文庫

消え去る気配のない雲と降り止まない様子の雨

トマス・ハーディ(河野一郎訳)『呪われた腕 ハーディ傑作選』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)。本書は19世紀イギリスの詩人で小説家トマス・ハーディの短編から8編を収めたもの。この短編集の多くが、運命のすれ違いによって生み出された悲劇である。

これらの悲劇には「もし、あの時にあの選択をしていなければ、今ごろはこんなことになってはいなかった」、「もしあのとき、別の選択肢を選んでいたら、今の自分の人生はもっとより良きものであったはずだ」という登場人物たちの後悔が物語の深いところに流れている。

登場人物たちは、過去の時点で犯した自分の間違いに対する後悔と、現状を変えることへの切実な希望の混じりあった思いに突き動かされて行動する。けれども、けっきょくはそんな行動が事態を好転させるわけもなく、よりいっそう悲劇的な破滅へと登場人物たちを導いてしまう。そしてより深くなった後悔だけが、苦い後味となってわたしたちに残されてしまう。

「人間の力の及ばない大きな運命の流れには、逆らうことができないのだ」との諦念が、本書に収められた短編のあちこちにちりばめられていると言えるだろう。

厚い雲が空一面に垂れ込め、雨はしとしとと降り続いている。時おり遠くの雷の音も聞こえる。消え去る気配のない雲と降り止まない様子の雨のせいで、部屋の中はどんよりと暗くじめじめとしている。そんな日は、思わず陰鬱な気分になってしまう。トマス・ハーディの『呪われた腕 ハーディ傑作選』は、そんな雰囲気がすみずみにまで漂う短編集だ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

続きを読む

失われてしまったもの、欲しくても手に入らなかったもの/ウィリアム・サローヤン(柴田元幸訳)『僕の名はアラム』新潮文庫

読んでいて「いいなあ」と感じることのできる短編集

ウィリアム・サローヤン柴田元幸訳)『僕の名はアラム』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)に収められている14の短編はすべて、9歳のアラムという名の少年が主人公。

子どもの目から見ると、世界には悪など存在しない。ヘンテコな大人たちはいるけれども、悪人はいない。それはわたしたちが子どもだった頃に世界を眺めていた目だ。『僕の名はアラム』は、そんな子どもの目で世界を描き出す。訳者あとがきにあるように、読んでいて「いいなあ」と感じることのできる短編集だ。

『僕の名はアラム』に収められた多くの作品に、とにかくヘンテコだがユーモアのあるおじさんがたくさん登場する。仕事もせずに一日中木陰に座ってチター(という楽器)を弾いて歌っているおじさん、荒れ果てた農園を家族に内緒で世界一美しい果樹園にしようと目論むおじさん、しゃべるときはいつも悪態をつくか、他人にしゃべるのをやめるよう命じるおじさん……。

おじさんだけに限らず、アラムのまわりの大人たちもどこかおかしみをたたえている。尻を革紐で打ちつける校長先生や、小さな寂れた村にあるよろず屋のあるじ、一番高い車を買ってしまうインディアン……。

でも、『僕の名はアラム』に登場する人々は、ちょっと変わっていて時に困った人だけど、根っからの悪人ではない。アラムは悪人のいない、あるいは悪の存在しない世界を眺めている。そのあたりが「いいなあ」と感じる所以であろう。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

続きを読む

かつて抱いたヒリヒリとした焦燥感/カーソン・マッカラーズ(村上春樹訳)『結婚式のメンバー』新潮文庫

気の触れた夏のできごと

カーソン・マッカラーズ村上春樹訳)『結婚式のメンバー』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)。

『結婚式のメンバー』は、フランキー・アダムスという名の12歳の少女の「緑色をした気の触れた夏のできごと」を描いた長編小説。

フランキーは兄の結婚式で人生が変わることを夢見る。生まれ育った町を出て行ってしまいたい、自分の名前を新しく変えてしまいたい。フランキーが抱えるそのような狂おしいほどの焦燥感が物語を貫く。それは「その夏、フランキーは自分がフランキーであることに心底うんざりしていた。そして自分のことがどうしても好きになれなかった」(本書p45)からこそ抱く焦燥感だ。

そんな焦燥感は、我々の胸に鋭くせまり、時には古傷をえぐる。読んでいて痛々しさを感じるほどに。そんなフランキーの行動に我々は危うさを感じ、時に「そっちへ行ってはいけないぞ」、「そんなことしているといつか痛い目を見るぞ」と思わずお節介を焼いてしまいたくなる。

なぜなら、我々は12歳のフランキーが抱いていた焦燥感の記憶を抱えているからだ。12歳のフランキーは、大人になった我々のかつての自分自身の姿なのだ。だからこそ、その痛みや古傷を思い出しながら、フランキーの行動をハラハラしながらページをめくることになる。

『結婚式のメンバー』は、単なるノスタルジーではない、大人になった我々がかつて抱いたヒリヒリとした焦燥感を呼び起こす小説だ。真夏の太陽の光と熱、真夏の夕闇が部屋に侵入する光景。自分の住む家や育った町にうんざりとしながらも、自力ではどこにも行けない諦め。時代や場所は違えども、二度と訪れない子どもの頃の風景が、目の前に立ち上がる。切なさと切実さをともなって。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

続きを読む

ブクログをはじめてみました

ブクログをはじめました

今更ながらブクログhttp://booklog.jp )をはじめてみました。

ブクログというのは「web本棚サービス」。
つまり、読んだ本や積読本、あるいはこれから読みたいなという本を、web上に登録することができるサービス、ということです。もちろん、レビューも書けるし、他の人との交流もできるらしい。本を軸にしたSNSの機能もあるようです。

わたしの本棚は以下のとおりです。この記事の執筆時点では、ほとんど何もない状態ですが。。。

http://booklog.jp/users/nobitter73


今日以降(2016年5月28日以降)に読んだ本から登録したいと思います。
そういうわけで、こちらのブログともども、よろしくお願いします。

続きを読む