失われてしまったもの、欲しくても手に入らなかったもの/ウィリアム・サローヤン(柴田元幸訳)『僕の名はアラム』新潮文庫
読んでいて「いいなあ」と感じることのできる短編集
ウィリアム・サローヤン(柴田元幸訳)『僕の名はアラム』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)に収められている14の短編はすべて、9歳のアラムという名の少年が主人公。
子どもの目から見ると、世界には悪など存在しない。ヘンテコな大人たちはいるけれども、悪人はいない。それはわたしたちが子どもだった頃に世界を眺めていた目だ。『僕の名はアラム』は、そんな子どもの目で世界を描き出す。訳者あとがきにあるように、読んでいて「いいなあ」と感じることのできる短編集だ。
『僕の名はアラム』に収められた多くの作品に、とにかくヘンテコだがユーモアのあるおじさんがたくさん登場する。仕事もせずに一日中木陰に座ってチター(という楽器)を弾いて歌っているおじさん、荒れ果てた農園を家族に内緒で世界一美しい果樹園にしようと目論むおじさん、しゃべるときはいつも悪態をつくか、他人にしゃべるのをやめるよう命じるおじさん……。
おじさんだけに限らず、アラムのまわりの大人たちもどこかおかしみをたたえている。尻を革紐で打ちつける校長先生や、小さな寂れた村にあるよろず屋のあるじ、一番高い車を買ってしまうインディアン……。
でも、『僕の名はアラム』に登場する人々は、ちょっと変わっていて時に困った人だけど、根っからの悪人ではない。アラムは悪人のいない、あるいは悪の存在しない世界を眺めている。そのあたりが「いいなあ」と感じる所以であろう。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
サローヤンのあまり幸福ではないバックグラウンド
本書の訳者あとがきには、『僕の名はアラム』についてこう書いている。サローヤン自身の少年時代をそのまま反映したわけではなく、サローヤンが与えられなかった少年時代を書いた、と。つまり、サローヤン自身は、本作で繰り返し述べられているような牧歌的な少年時代を送ったのではないからこそ、自分が送りたかった理想的な少年時代を小説作品として描いた、ということになろう。
それはまず、アルメニア移民の子孫というバックグラウンドに原因が求められる。サローヤンの親世代は、トルコによるアルメニア人虐殺から逃れるために新大陸アメリカへと渡ったと訳者あとがきにある。だから、親世代の引きずる民族的な暗い影がサローヤン自身にもさしこんだことは想像に難くない。
次に、サローヤン自身の家族にも明るい出来事は少ない。サローヤンが生まれた3年後には父親が死んでいる。その後、サローヤンは5年間、孤児院に預けられている。そのせいなのかはわからないがと訳者あとがきにあるが、サローヤンは大人になっても家族関係や社会関係において、さまざまな問題を抱えたという。
そんなサローヤンのあまり幸福ではないバックグラウンドを思うとき、『僕の名はアラム』に描かれた世界を眺めると、切なささえも感じる。手に入らなかったものを切実に追い求めたサローヤンの姿が浮かび上がるからだ。
もちろん、作者本人の抱えるバックグラウンドを知らなくても、子どもが純粋に世界を眺める物語として本作は十分に楽しめる。けれども、サローヤン個人の背景を知ってしまうと、そこに描かれた純粋な世界が、もっと滋味深い味わいに変化する。
おじさんに向けられるクールだが警戒のない視線
本作に収められている「ザクロの木」という作品が、この作品集でも面白かった作品だ。
「ザクロの木」は、家族に内緒で広大な砂漠を農園にしようと奮闘するおじさんが登場する。「華々しい破滅に追いやりつつある壮大な衝動」(本書p50)に突き動かされたおじさんは、無価値な砂漠を農園にすべく買った。
おじさんが広大な砂漠を目の前にして壮大な夢を描いて語る場面がある。僕は従順におじさんの夢の話に付き合いながらも、どこか冷めた目でおじさんを見ている。少年は表面的にはおじさんに従順なのだが、心の中ではけっして信用していないところが味わい深い。たとえば、こんなやりとりがある。
"ひとつ言っておく、とおじさんは言った。家に帰ったら、この農場のことはみんなに黙っていてほしい。
はいおじさん、と僕は言った。
(農場? と僕は思った。農場ってどこだ?)”(本書p60)
そして、おじさんは「誰も見たことのない奇妙奇天烈に荒廃した地獄のように遠い土地」(本書p66)を、世界一美しい果樹園にすべく奮闘する。金を注ぎ込みながら…...。
そんなおじさんをアラムはクールに見ているが、それは決して警戒交じりに悪人を見る視線ではない。そのあたりもまた、この作品集を読んでいて「いいなあ」と感じる所以であろう。
失われてしまったもの、欲しくても手に入らなかったもの
この短編集、おじさんが登場する作品が多いが、ムーラッシュという名のいとこもあちこちに登場する。『僕の名はアラム』はおじさん文学という側面だけではなく、いとこ文学という側面もある。そして、アラムはいとこのムーラッシュとしじゅう一緒に遊びまわったり、喧嘩をしたりしている。
こんな一節がある。
“いとこのムーラッドの家に行って、五年経ったら僕たち二人のどっちがより強くなっているかをめぐって一時間言い争った。僕たちは三回レスリングをやって僕は三回とも負けたが、一回はほとんど勝った”(本書p225)。
この子どもっぽいクセのある負けず嫌いっぷりがまたいい。語り手の少年アラムもまた、やがてヘンテコだがユーモアのあるおじさんになるのだろう、と思わせるようなクセのある負けず嫌いっぷりだ。
そんな多彩な側面のある『僕の名はアラム』、文章は平易で読み易い。なにしろ、9歳の子どもが語り手だから。大人になったわたしたちは忘れてしまった子どもの頃の目を思い出しながら読むことになる。わたしたちはこんなふうに世界を眺めていたはずだ、こんなふうに世界を捉えていたんだ、と。そして、わたしたちから失われてしまったもの、サローヤンのように欲しくても手に入らなかったものを思い出しながら。
そして同時に、ヘンテコな大人はいるけれど、世界は純粋で善きものに満ちていたんだなあと感嘆する。わたしたちは何度も「いいなあ」と思いながら、その世界を堪能するのだ。切なさをどこか感じながら。
ブクログのレビュー
しかし、訳者あとがきにあるように、サローヤン自身は本作で描かれているような牧歌的な少年時代を送ったわけではない。父親が死んで孤児院に入れられたこともあるという。だからこそ、自分が送りたかった理想的な少年時代を小説作品として描いたという側面もあるのだろう。
そんなサローヤンのあまり幸福ではないバックグラウンドを思うとき、『僕の名はアラム』に描かれた世界を眺めると、切なささえも感じる。手に入らなかったものを切実に追い求めたサローヤンの姿が浮かび上がるからだ。
いずれにせよ、サローヤン自身のバックグラウンドを知っていても知らなくても、わたしたちは『僕の名はアラム』を、忘れてしまった子どもの頃の眼を思い出しながら読むことになる。そして同時に、わたしたちから失われてしまったもの、サローヤンのように欲しくても手に入らなかったものを思い出しながら。
先に述べたように、そこには根っからの悪人のいない牧歌的な世界が描かれている。そしてわたしたちは何度も「いいなあ」と思いながら、その世界を堪能するのだ。切なさをどこか感じながら。
参考
1)新潮文庫/『僕の名はアラム』
http://www.shinchosha.co.jp/book/203106/
2)ブクログ/『僕の名はアラム』
http://booklog.jp/item/1/4102031065
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