誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

消え去る気配のない雲と降り止まない様子の雨/トマス・ハーディ(河野一郎訳)『呪われた腕 ハーディ傑作選』新潮文庫

消え去る気配のない雲と降り止まない様子の雨

トマス・ハーディ(河野一郎訳)『呪われた腕 ハーディ傑作選』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)。本書は19世紀イギリスの詩人で小説家トマス・ハーディの短編から8編を収めたもの。この短編集の多くが、運命のすれ違いによって生み出された悲劇である。

これらの悲劇には「もし、あの時にあの選択をしていなければ、今ごろはこんなことになってはいなかった」、「もしあのとき、別の選択肢を選んでいたら、今の自分の人生はもっとより良きものであったはずだ」という登場人物たちの後悔が物語の深いところに流れている。

登場人物たちは、過去の時点で犯した自分の間違いに対する後悔と、現状を変えることへの切実な希望の混じりあった思いに突き動かされて行動する。けれども、けっきょくはそんな行動が事態を好転させるわけもなく、よりいっそう悲劇的な破滅へと登場人物たちを導いてしまう。そしてより深くなった後悔だけが、苦い後味となってわたしたちに残されてしまう。

「人間の力の及ばない大きな運命の流れには、逆らうことができないのだ」との諦念が、本書に収められた短編のあちこちにちりばめられていると言えるだろう。

厚い雲が空一面に垂れ込め、雨はしとしとと降り続いている。時おり遠くの雷の音も聞こえる。消え去る気配のない雲と降り止まない様子の雨のせいで、部屋の中はどんよりと暗くじめじめとしている。そんな日は、思わず陰鬱な気分になってしまう。トマス・ハーディの『呪われた腕 ハーディ傑作選』は、そんな雰囲気がすみずみにまで漂う短編集だ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

大きな運命の流れには、逆らうことができない

では、なぜ人々はそんなに暗く悲劇的なハーディを読むのだろうか。

本書の解説セクションでは、ハーディの描写の中にヴィクトリア朝のイギリスの失われてゆく風景や自然を描いていると言及されている。ハーディが生きたのは、近代へと移行する時代だ。そんな時代の流れの中で、風景や自然は個人の力ではどうしようもなく、ただ失われてゆく。そんな喪失を描写しているからこそ、ハーディの描く風景や自然が印象に残るのだろう。

本書のあちこちにちりばめられている「人間の力の及ばない大きな運命の流れには、逆らうことができないのだ」との諦念の源流は、ここにあるのかもしれない。たしかに本書を読んでいると、人間は大きな運命の流れには、けっきょく逆らうことができないのかと諦念的な気分にもなる。

『呪われた腕 ハーディ傑作選』に収められた短編のうちのひとつ「幻想を追う女」は、「運命のすれ違いによって生み出された悲劇」を端的に示す一編だ。

「幻想を追う女」は、ウィリアムとエラの夫婦が、海辺の町でサマーバケーションを過ごすための家を借りるところからはじまる物語。

その家は、詩人のトルーが借りていたもので、彼が旅に出て家を開けているあいだに、夫婦は借りることになった。詩人のトルーという男、妻のエラの憧れの人物だった。エラ自身も詩を書いて雑誌へと投稿していた。ただし、エラは男性名のペンネームを使って。そんなふたりはたまたま一度だけ、同じ雑誌の同じページに詩が掲載ことがあった。エラはトルーに会うことを熱望するが、運命のすれ違いによってなかなか出会うことができないまま、思いだけが募ってゆく……というストーリー。

偶然の出来事によるストーリー展開には、今の小説を読み親しんだ私たちの目からすれば、そこに作為的な匂いさえ漂う。しかし、その背後には人間の力の及ばない大きな運命の流れに、人は逆らうことができないのだという諦念的な思想があるとすれば、いかにラストが科学的にはあり得ないような、合理性では割り切れないようなものであっても、なるほどそういうものかもしれないなという不思議な説得力を持つ。

呪う方も呪われた方にも、等しく呪いがかかる

『呪われた腕 ハーディ傑作選』の表題作、「呪われた腕」。

「孤独な乳搾りの女」ローダ・ブルックは、ひとりで息子を育てている。そこに金持ちの地主ロッジが若い妻ガートルードを迎え入れるという知らせが届く……。この話は、嫉妬や憤りから来る思いが呪いをかけてしまうという物語だ。

けれどもそのあと、呪いをかけた方の女と呪いをかけられた方の女は仲良くなり、互いに悪い気持ちなど持たないくらいの、ある種の愛情すら感じられる関係になる。むしろ、呪いをかけた方の女が、「自分の意思とは反対に他人を傷つける力が自分にはあるのか」と悩むほどだ。

ところが、この呪いをかけた方の女、心情の振れ幅がけっこう大きい。はじめは嫉妬と憤りを抱いていたかと思えば、親切に心を許し、親しみを抱くようになる。そのあとに呪いをかけられた方の女からの相談に乗って一緒に行動するうちに、呪いをかけたのが自分だと知られてしまうのではないかと疑心暗鬼になり、ひどい罪悪感を抱え、ついには村から姿を消してしまう。

けれども最後、呪いをかけられた方の女に再会したとき、呪いをかけた方の女は、目の前の悲劇的で破滅的な出来事をもたらしたのは呪いをかけられた方の女が原因だと、口汚く激しく非難してしまう。はじめに嫉妬と憤りを抱えた呪いをかけた方の女は、相手だけではなく自分にもその呪いをかけてしまっていたのではないか。そんなことさえ考えてしまうのだ。

また、呪いをかけられた方の女も、自分の呪いが解けるのなら、とにかく罪人でも無実の人間でも、誰でもいいから一刻も早く縛り首になってほしいとさえ祈ってしまう。こちらの方もまた、自分のかけられた呪いに加え、他人が死んでしまうことさえ切望することで、自らに呪いをかけてしまったようなものだ。

この「呪われた腕」、邪な心を抱いた者はそれ相応の報いが降りかかってしまうという、素朴な因果応報論にも彩られた物語であると言えるかもしれない。

夢、あるいは悪夢みたいなもの

『呪われた腕 ハーディ傑作選』に収められた物語は、日本の怪談や落語にありそうな因縁話が多い。そのあたりに、明治期から日本で広くハーディが受け入れられた素地みたいなものがあるのだろう。

本書の解説セクションで言及されているが、ハーディは「短編とは記録ではなく夢みたいなものだ」と語ったことがあるという。なるほど、よく考えてみれば睡眠中に見る夢も、わたしたち自身の力ではコントロールできない。睡眠中に見る夢は自力でコントロールできないという点で、わたしたち人間の運命にも似ている。夢の中でわたしたちは、ただ私たちの身に降りかかってくる状況の変化に身を委ねるしかない。たとえそれが悪夢であったとしても。

ハーディがそう考えたのかどうかは、わたしにはわからない。けれども、「短編とは夢みたいなもの」という言葉は、この短編集に収められた短編たちの本質を突いている。わたしたちはひとつの夢、それも運命の大きな渦の中に投げ込まれてもがき続ける悪夢として、この短編集を楽しめばいいのだろう。

参考

1)新潮文庫/『呪われた腕 ハーディ傑作選』
http://www.shinchosha.co.jp/book/210806/

2)ブクログ/『呪われた腕 ハーディ傑作選』
http://booklog.jp/item/1/4102108068


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