誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

かつて抱いたヒリヒリとした焦燥感/カーソン・マッカラーズ(村上春樹訳)『結婚式のメンバー』新潮文庫

気の触れた夏のできごと

カーソン・マッカラーズ村上春樹訳)『結婚式のメンバー』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)。

『結婚式のメンバー』は、フランキー・アダムスという名の12歳の少女の「緑色をした気の触れた夏のできごと」を描いた長編小説。

フランキーは兄の結婚式で人生が変わることを夢見る。生まれ育った町を出て行ってしまいたい、自分の名前を新しく変えてしまいたい。フランキーが抱えるそのような狂おしいほどの焦燥感が物語を貫く。それは「その夏、フランキーは自分がフランキーであることに心底うんざりしていた。そして自分のことがどうしても好きになれなかった」(本書p45)からこそ抱く焦燥感だ。

そんな焦燥感は、我々の胸に鋭くせまり、時には古傷をえぐる。読んでいて痛々しさを感じるほどに。そんなフランキーの行動に我々は危うさを感じ、時に「そっちへ行ってはいけないぞ」、「そんなことしているといつか痛い目を見るぞ」と思わずお節介を焼いてしまいたくなる。

なぜなら、我々は12歳のフランキーが抱いていた焦燥感の記憶を抱えているからだ。12歳のフランキーは、大人になった我々のかつての自分自身の姿なのだ。だからこそ、その痛みや古傷を思い出しながら、フランキーの行動をハラハラしながらページをめくることになる。

『結婚式のメンバー』は、単なるノスタルジーではない、大人になった我々がかつて抱いたヒリヒリとした焦燥感を呼び起こす小説だ。真夏の太陽の光と熱、真夏の夕闇が部屋に侵入する光景。自分の住む家や育った町にうんざりとしながらも、自力ではどこにも行けない諦め。時代や場所は違えども、二度と訪れない子どもの頃の風景が、目の前に立ち上がる。切なさと切実さをともなって。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

フランキーの成長を支えるふたり

この小説の主な登場人物は、主人公の少女フランキー・アダムスと、アダムス家の女料理人ベレニス、そしてフランキーのいとこで6歳のジョン・ヘンリーの3人。この3人の関係は、ある意味では完璧な関係なのだが、やがてこの関係も物語の終盤近くに終わってしまう。それは、それはフランキーの成長に伴った必然的な運命がそうさせてしまったかのように。

女料理人ベレニスは、フランキーにとって「人生の水先案内人」のような存在だ。激しく揺れ動いて、ともすれば大きくどこかへと飛び出してしまいそうな感情を抱くフランキーをつなぎ留めている。まるで、勝手に舟が流れ出ていかないように、岸に結びつけているロープのように。ベレニスは、あたかも母親のいないフランキーの母親のようにも見える。だから、最後は成長したフランキーの元から去ってしまうのだ。

フランキーのいとこジョン・ヘンリーはまだ6歳に過ぎず、幼児性を持つ。無邪気で、思ったことをためらうことなく口にしてしまう。ジョン・ヘンリーが口にすることは幼い子どもの素朴な疑問だったりするわけだが、その言葉は時に鋭くふわふわと浮き足立つフランキーを地面に着地させる。ジョン・ヘンリーの言葉がフランキーを現実につなぎ留める役割を果たしているのだ。ジョン・ヘンリーはベレニスがフランキーの家を去るのと時を同じくして亡くなってしまう。残酷で唐突な別れだが、その死はフランキーの子ども時代との決別のしるしなのだろう。

この物語のフランキー、ベレニス、ジョン・ヘンリーの3人の関係から、ベレニスが欠けてもジョン・ヘンリーが欠けても、物語は成立しなかっただろう。

ベレニスがいなければ、フランキーはどこかにつなぎ留められることもなく、突拍子もない行動を取ってしまうという、大人になりきれないままの子どもだったかもしれない。あるいは、ジョン・ヘンリーがいなければ、やはりフランキーは幼児性を抱えたままで大人になりきれなかったかもしれない。

12歳のフランキーは、物語の最後で13歳になる。そこでは、13歳になったフランキーは突拍子もない言葉や行動を取っていた子ども時代と比べると、ずっと成長している。たとえば、12歳の頃には恐々と怖いもの見たさに突き動かされて見に行った共進会の畸形人間を見に行かなくなっている。たとえ、大人の忠告がなかったとしても、フランキーはもう二度とそこに足を踏み入れなかっただろう。

もちろん、12歳から13歳に成長したところで、あるべき世界が構築され秩序立ったものとして、フランキーの前に確固として立ち上がるわけではない。13歳になったフランキーは、それからもやはり自分が何者であるかを探り、自分の居場所を求めていくのだろう。けれども、12歳の頃と比較すると確実な成長を遂げていることがわかる。階段をひとつずつ登るときのように。

「閉じ込められている」感覚

カーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』は1946年に発表した作品。舞台はアメリカ南部の田舎町。フランキーの家で料理人として働く黒人のベレニスの抱く「閉じ込められている」感覚も、この作品の根底を流れるテーマだろう。

「あたしたちはみんな、多かれ少なかれ閉じ込められているんだ。(中略)そしておそらくあたしたちはみんなもっと広いところに飛び出して、自由になりたがっているんだろう。しかし何をしたところで、あたしたちはやはり閉じ込められたままだ」(本書p236)。「人はみんなそれぞれのやり方で閉じ込められている。しかしすべての黒人たちのまわりには、それに加えて完全な境界線が引かれている」(本書p237)。

まだ黒人解放運動もそれほど大きいものではなかった時期の頃だ。黒人であるベレニスの抱く鬱積を、白人であるカーソン・マッカラーズが1946年に文学作品として描いたことの意義は大きいだろう。日本人であるわたしが容易に想像できないほどに。

わたし自身、カーソン・マッカラーズの小説は初めて読んだ。

カーソン・マッカラーズの長編小説はこの『結婚式のメンバー』以外にも、作者が23歳のときに発表した『心は残酷な狩人』、訳者の村上春樹氏が最高傑作として挙げる『悲しきカフェのバラード』の3つの主な長編小説があるという。ほかにも短編小説も発表しているようだ。

巻末の訳者解説にあるように、カーソン・マッカラーズの小説は単行本でも文庫でも、なかなか容易に手に入れることは困難な状況にある。願わくば、カーソン・マッカラーズの作品群の再評価がもっとなされて復刊、あるいは新訳が待たれるところである。

ブクログのレビュー

『結婚式のメンバー』は、兄の結婚式で人生が変わることを夢見るフランキー・アダムスという名の12歳の少女の「緑色をした気の触れた夏のできごと」を描いた長編小説。生まれ育った町を出て行ってしまいたい、自分の名前を新しく変えてしまいたいとフランキーが抱える狂おしいほどの焦燥感が物語を貫く。

そんな焦燥感は、我々の胸に鋭くせまり、時には古傷をえぐる。読んでいて痛々しさを感じるほどに。なぜなら、我々は12歳のフランキーが抱いていた焦燥感の記憶を抱えているからだ。12歳のフランキーは、大人になった我々のかつての自分自身の姿なのだ。だからこそ、その痛みや古傷を思い出しながら、フランキーの行動をハラハラしながらページをめくることになる。

『結婚式のメンバー』は、単なるノスタルジーではない、大人になった我々がかつて抱いたヒリヒリとした焦燥感を呼び起こす小説だ。真夏の太陽の光と熱、真夏の夕闇が部屋に侵入する光景。自分の住む家や育った町にうんざりとしながらも、自力ではどこにも行けない諦め。時代や場所は違えども、二度と訪れない子どもの頃の風景が、目の前に立ち上がる。切なさと切実さをともなって。

参考

1)新潮文庫/『結婚式のメンバー』
http://www.shinchosha.co.jp/book/204202/

2)ブクログ/『結婚式のメンバー』
http://booklog.jp/item/1/4102042024


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