誤読と曲解の読書日記

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わたしたちの心の奥底まで見透かすグレアム・グリーンの目/グレアム・グリーン(小津次郎訳)『第三の男』ハヤカワepi文庫

わたしたちの心の奥底まで見透かすグレアム・グリーンの目/グレアム・グリーン(小津次郎訳)『第三の男』ハヤカワepi文庫:目次

人間の暗黒面を見つめる物語

グレアム・グリーン『第三の男』は、第二次世界大戦直後のウィーンを舞台に、人間の暗黒面を見つめる物語。この『第三の男』は、単なる事件の真相を暴いてゆくだけの謎解き物語の範疇には収まらない。

特に、ウィーンの街の地下に張りめぐらされた大下水管でのクライマックスは、人間の抱える闇の奥底にまで入りこむようで、ゾクゾクとした恐ろしさに似たものすら感じる。そういった意味で、この物語は人間の暗黒面を見つめる物語でもある。

物語の主人公はロロ・マーティンズ。彼は”バック・デクスター”というペンネームで、安いペーパーバックに西部劇を書く作家。けっして一流とは言えない作家である。そんなマーティンズは、国際難民協会のハリー・ライムから招待を受け、「国際難民の世話をするのを目的として」(本書p21)ウィーンにやって来た。このハリー・ライムは、マーティンズと大学時代をともに過ごした二十年来の友人である。

ところが、マーティンズがウィーンに到着したまさにその日、交通事故で死亡したというハリーの葬儀が行われていた。マーティンズは友人の死にショックを受けるが、葬儀の場で知り合ったロンドン警視庁のキャロウェイ大佐から、さらにショッキングな事実を聞かされる。それは、ハリー・ライムは闇商人であり、警察が追っていたと聞かされるのだ。けれども、マーティンズは納得できず、ハリーの死の真相を独自に調査しはじめる……、というストーリーだ。

この物語を貫いているのは、友情だろう。ロロ・マーティンズがハリー・ライムに抱いていた友情が、この物語を通じてどのように変化してゆくのかが、ひとつの見ものである。荒廃した街で、いかがわしい人物たちがうごめく。マーティンズは、そんな街で闇に染まってしまった人物に向かい合うのだ。
Riesenrad Wien


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

無垢な存在としてのマーティンズ

主人公のロロ・マーティンズは、キャロウェイ大佐からハリー・ライムが闇商人だと聞かされると、カッとなって殴りかかるような人間だった。思わずカッとなるのは、ハリー・ライムの無実を信じる無垢で純粋で単純な友情を示しているのだろう。マーティンズの抱える単純な友情というのは、学生時代の気安い友情を育んだ人物だから、ハリー悪い人間ではないはずだと信じる単純さである。そして彼は、ハリーの潔白を信じ、それを証明しようと走り回る。

ロロ・マーティンズはうだつの上がらない三流作家だが、それだけに物語の中では無垢な存在として描かれる。つまり、戦後間もない荒廃したウィーンにうごめく闇に対して、闇に染まっていない無垢な存在として位置付けられると言えるだろう。

けれども、マーティンズは自分の足でウィーンを歩き回り、ハリー・ライムの周囲にいた人間に会って話を聞くことで、ハリーの無実を自ら少しずつ疑ってゆくようになる。友人の死の真相を明かしてゆくにしたがって、次第に「闇社会に生きるモンスター」(本書解説p201)となってしまった人間の暗黒面を少しずつ引きずり出してゆくのだ。

そして、物語の中盤を過ぎ、キャロウェイ大佐からペニシリンの話を聞いたあと、マーティンズは決定的に変化する。その瞬間、「二十年も前に得た気安い友情と、英雄崇拝と、信頼の世界は終わっ」(本書p133)てしまうのだ。

つまりは、無垢な人間が荒廃したウィーンのいかがわしい人物たちと関わることで、マーティンズは、自らの単純さから抜け出してゆくのだとも言える。もちろん、マーティンズの根底には無垢なものが残ったままだが、少なくとも表面的な単純さ、学生時代の友人だから悪い人間ではないはずだと信じ続けるような単純さは、物語の終わりでは失われている。

マーティンズは無垢な人間だったが、ウィーンの街で暗闇の奥深くまで入り込み、そして暗黒に染まった人間に向けて、自らの手で引き金を引くまでになる。物語の終わりでは、彼はもはや物語のはじまりとは別の地点に立っている。西部劇と女にかけては一人前だと、キャロウェイ大佐が認めたように、今後は作家として一歩も二歩も踏み込んだ地点に立つといいと、願わずにはいられない人物となるのだ。

ウィーンの街という舞台

この物語の舞台は、第二次世界大戦直後のウィーンの街。戦争の傷跡が生々しく残されたままの当時のウィーンは、米英仏ソの四か国に占領され、冷戦の緊張が走りはじめた街でもあった。そして、二月の寒さがもたらす、雪と氷に覆われた街でもあった。

この物語の語り手であるキャロウェイ大佐は、当時のウィーンの街を次のように描写する。

「私にとってウィーンは、みすぼらしい廃墟の町であり、しかもその二月には、廃墟が雪と氷の氷河になってしまったのだ。ドナウ河は灰色の、どんよりとした濁流で、ソ連領の第二地区を貫通して遥か遠く流れていた。この地区では、プラーター(ウィーンの歓楽街)は破壊され、荒涼として、雑草の生えるに任されている」(本書p19)。

戦争に敗れ、みすぼらしく荒廃した姿をさらすウィーン。そして、冷戦の緊張が満ちはじめたウィーンは、いかがわしい人間が暗躍するにはうってつけの舞台だと、グレアム・グリーンの目に映ったのだろう。そして、主人公ロロ・マーティンズは、そんなウィーンの街を歩きまわり、時には地上高く舞い上がり、そして時には地下深くに潜る。そうすることで、人間の暗黒面を浮かびあげてゆく。

この物語のクライマックスは、マーティンズたちが大下水路を使い、ウィーンの地下深くへと潜ってゆくところだ。

「われわれのほとんど誰もが知らない奇妙な世界が、われわれの足の下に横たわっている。われわれは滝が落ち、急流の走る、いたるところに洞穴のある土地の上に住んでいる。この土地にも、上の世界と同じように、潮の干満がある」(本書p186)。

上記の描写は、ウィーンの地下深くを走る大下水路のことを描写したものだが、それは同時に人間のことを普遍的に言い表しているようにも思える。荒廃した街が人々の心まで荒廃させ、その人々の心の奥底にはさらに、奥深い暗闇が張りめぐらされていることを描写しているように思えるからだ。

その描写は、「きっと、この物語に登場するウィーンにうごめくいかがわしい人物たちに限らず、今日の現代社会を生きるわたしたちも、またそうであるかもしれない」と、思わず省みてしまうほどである。

この物語の作者グレアム・グリーン自身、カトリック教徒の作家であり、「であるからこそ、人間心理の暗黒面を見ようとする」(本書解説p199)作家でもある。この大下水路の場面の描写は、グレアム・グリーンの目が人間の抱える闇の奥底にまで入りこみ、わたしたちの心の奥底まで見透かされているようで、わたしたちはゾクゾクとした恐ろしさに似たものすら抱いてしまうのだ。

この物語について

ところで、本書の序文と解説によると、この『第三の男』は、もともと映画化を前提に作られた物語であるという。『第三の男』は、キャロル・リード監督による映画作品の原作として書かれたものだそうだ。そしてこの原作と映画化された作品とでは、いくつかの違いがあるが、すべて原作者グレアム・グリーンキャロル・リード監督の合意のもとでなされたという。

作者のグレアム・グリーンは「事実、この映画は物語よりも良くなっている。それは、この場合、映画は物語の決定版であるからだ」(本書序文p9)と、記している。わたし自身は、まだ映画作品の方は観ていないが、いつか鑑賞できるといいと思っている。

参考リンク

1)ハヤカワepi文庫/グレアム・グリーン(小津次郎訳)『第三の男』
www.hayakawa-online.co.jp

2)ブクロググレアム・グリーン(小津次郎訳)『第三の男』
booklog.jp


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