誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

あるいは沼という名の所有欲/2017年5月のまとめ

『誤読と曲解の読書日記』/2017年5月のまとめ:目次

あるいは沼という名の所有欲

世の中には、趣味の世界で「沼」が多数、報告されています。カメラ好きなら「レンズ沼」、万年筆好きなら「万年筆沼」や「インク沼」など、要はその趣味に関係するものをたくさんそろえることを「沼」と表現するようです。趣味に関するたくさんのものを集めて、「所有欲」を果てしなく満たし続けることを「沼」と表現していると言えるかもしれません。

「あるいは沼という名の所有欲」といったところでしょうか。もちろん、所有欲を満たすためだけに沼にはまり込んでいるわけでもなさそうですが、ある意味では、多くの趣味の世界では「所有欲」が、「沼」の中の大きな割合を占めそうです。

今週のお題というわけではないんですが(この記事は、はてなブログの「今週のお題」に参加したものではありません)、そういえば、読書にはまることを「読書沼」と、あまり言わないな、ということに気づきました。まあ、そもそも「読書家」という言葉や「活字中毒」なる言葉もあるので、今さらわざわざ「沼」とは言わなくても、ということなのでしょうか。

どちらかというと、「沼」というよりは、積み上げた本が「山」になり、時には「雪崩」を起こすことがあるので、「沼」という言葉からは、ちょっとかけ離れた世界なのかなとは思います。だから何だという話ですが。まあ、「読書沼」という言葉が、世の中で使われていないわけではないだろうし、それはそれでいいんですが、やっぱり読書というと「沼」っぽくはないなあという話です。

レンズや万年筆やインクはたしかに「沼」っぽい。けれど、本に関しては、あまり「沼」という言葉はしっくりこない、ということです。それはいったいなぜなのだろう。物理的にものを集めて、所有欲を満たすという行為は同じようなものなんですけどね。いや、所有欲を満たすために本を読んでいるわけでもないんですが。

たとえば、読み終わった本が本棚に並んでいるところを入ると、ある程度「所有欲」みたいなものは感じられなくもないですが、それはただ「所有欲」を満たすためだけのものではないことは、読書を趣味にしている人なら、理解できる感覚ではないでしょうか。あるいは、買ってはきたものの、まだ読んでいない積読本を眺めていても、それだけで「所有欲」を満たされはしない。

もちろん、レンズや万年筆やインクの「沼」にはまっている人からすれば、別に「所有欲」を満たすためだけに、それらのものを集めているわけでもないのでしょう。わたしだって、万年筆やインク、それに鉛筆を(ちょっと)集めているので、そのあたりの「所有欲」を満たすためだけに、ものを集めているわけではないという感じは理解できなくもない。

読書に関して言えば、集めるものがブックマーク(しおり)だったり、ブックカバーだったりすると、それ自体のコレクションをしている人にとっては、「ブックマーク沼(しおり沼)」や「ブックカバー沼」ということになるんでしょうけど、まあやっぱり、読書関係になるとあまり「沼」って感じはしないですね。なぜなのだろう。


今月はゴールデンウィークが明けてから、ちょっと忙しかったもので、更新がなかなか滞ってしまいました。それでは、今月のまとめをどうぞ。

『誤読と曲解の読書日記』今月のまとめ

2017年5月に更新した『誤読と曲解の読書日記』記事は2本でした。

5月5日更新:サスペンスと冒険、人として大切なことがいくつか/E・ケストナー池田香代子訳)『エーミールと探偵たち』岩波少年文庫
記事リンク:http://nobitter73.hatenadiary.jp/entry/2017/05/05/090000

『エーミールと探偵たち』は、ベルリンを舞台に、少年エーミールが友情を育みながら、お金を盗んだ犯人を追いかけてゆく、サスペンスと冒険に満ちた物語。同時に、冒険を通じた子どもたちの機転と勇気のあふれる物語とも言えるだろう。

冒険の終わったあとの、エーミールのおばあさんの演説が、また良い。おばあさんは次のようなことを訴える。自分の義務や役割をきちんと把握し、目立たないところでも、それをやり遂げることの大切さ。表舞台で華々しい活躍をしない子どもでも、ちゃんと見守っている人の存在。

子どもたちの大冒険だけを描くのではなく、そういったことを描くからこそ、ここに描かれた大冒険は、ひときわ輝きを増し、大人になったわたしたちの胸にさわやかな読後感を与えてくれるのだろう。


5月10日更新:わたしたちの心の奥底まで見透かすグレアム・グリーンの目/グレアム・グリーン(小津次郎訳)『第三の男』ハヤカワepi文庫
記事リンク:http://nobitter73.hatenadiary.jp/entry/2017/05/10/200000

グレアム・グリーン『第三の男』は、第二次世界大戦直後のウィーンを舞台に、人間の暗黒面を見つめる物語。この『第三の男』は、単なる事件の真相を暴いてゆくだけの謎解き物語の範疇には収まらない。

この物語の中でのウィーンの地下深くを走る大下水路の描写は、同時に人間のことを普遍的に言い表していると言えるだろう。荒廃した街が人々の心まで荒廃させ、その人々の心の奥底にはさらに、奥深い暗闇が張りめぐらされていることを描写しているように思えるからだ。


それぞれの記事には、出版社ホームページとブクログへのリンクがあります。

『誤読と曲解の映画日記』今月のまとめ

『誤読と曲解の映画日記』は、管理人の”のび”が運営する、映画の感想を書くブログです。ご興味がありましたら、ぜひご笑覧ください。2017年5月に更新した『誤解と曲解の映画日記』の記事は2本でした。


5月13日更新:無心の赤ちゃんが大人たちの愚かさや未熟さを浮かび上がる/『赤ちゃん泥棒
記事リンク:http://nobitter73.hatenablog.com/entry/20170513/1494673200

映画『赤ちゃん泥棒』は、盗み出した赤ちゃんをめぐるドタバタ喜劇。他人の赤ちゃんを盗み出し、育てるつもりだった赤ちゃん泥棒の夫婦は、物語の終わりに成長する。まるで、赤ちゃんに育てられたみたいに。

赤ちゃん泥棒をする夫婦は、愚かで未熟な人間だ。けれども、脱獄囚たちや賞金稼ぎとの格闘、あるいは上司夫婦とのやりとりを通じて、夫婦は少しずつ自らの抱えた愚かさや未熟さから、解き放されてゆく。


5月27日更新:喜びのために生きよう! 踊って歌うために!/『ジミー、野を駆ける伝説』
記事リンク:http://nobitter73.hatenablog.com/entry/20170527/1495882800

映画『ジミー、野を駆ける伝説』は、自由の大切さや自由を追い求めることの尊さを描いた物語。自由がけっして当たり前のものではなかった時代に、自由を求める主人公ジミー・グラルトンの活動と、それを抑えようとする人々との対立を描く。

自由のなかった時代に、自由を求めるのがどれだけ困難だったのか。現在の日本とは、時代も社会構造も政治体制も異なるが、ジミーの自由を求め続けた姿勢は燦然と輝いて見える。それは、自由が尊いものでかけがえのない輝くものであり、その輝くものをひたむきに求めたジミーの姿もまた、生き生きと輝いているからだ。


それぞれの記事には、yahoo!映画と映画.com、そしてFilmarksへのリンクがあります。あらすじなどの参考にどうぞ。

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