誤読と曲解の読書日記

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わたしたちの内部にひそかに息づく物語をめぐる考察/小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫

わたしたちの内部にひそかに息づく物語をめぐる考察/小川洋子河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫:目次

※ここで取り上げる本は、Amazonほしい物リストから送っていただいた本です。

個人の内部にひそかに息づく物語をどうとらえるか

小川洋子河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫

本書は、作家の小川洋子氏と臨床心理学者で文化庁長官を務めた河合隼雄氏との対談をまとめたもの。本書は、個人の内部にひそかに息づく物語を、わたしたちはどうとらえるかということを考えてゆく内容となっている。

対談するのは、河合隼雄氏と小川洋子氏。臨床心理学者として人々の苦悩に耳を傾け、寄り添い続けてきた河合隼雄氏が、言わば他人の個人的な物語を引き出してきた方だとすれば、小川洋子氏は作家として個人の内部にひそかに息づく物語を小説というかたちにして紡ぎ出してきた方だと言えるだろう。

本書は小川氏が河合氏に疑問や質問をぶつけ、それに河合氏がこたえるという形式だが、臨床心理学者として人々の物語に耳を傾けてきた河合氏の言葉に小川氏が耳を傾けている構図が面白い。特に河合隼雄氏からみれば、普段の役割とは逆の立場になっているとも言えるからだ。

そして同時に、これだけ河合氏からいろいろな話を引き出している小川氏もまた、やはり一流の物語の紡ぎ手なのだなあと、本書を通じて改めて感じた。物語を紡ぐにも、個人の中に眠る物語をうまく引き出して、きちんとした言葉にしなければならないからだ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

「ピッチャー」と「キャッチャー」

本書「Ⅰ 魂のあるところ」は、小川洋子氏の小説『博士の愛した数式』をめぐる対談となっている。だから、『博士の愛した数式』の登場人物やエピソードをもとに話が広がっていくので、『博士の愛した数式』を読んだ人なら(わたしは未読)、もっと深く対談に入っていけるのかもしれない。

だからと言って、この部分が面白くないわけではない。たとえば、いい作品ができるときの様子を、キャッチボールになぞらえて語る部分がある。小説やエッセイを書くときに、「自分の意図を超えた面白さが上手い具合に入ってこそ、良い作品になる」(本書p23)と、河合氏は言う。

ピッチャーは、自分が意図した以上の球を投げたとき、良く球が走ったというが、自分がうまく投げたとは言わないと河合氏は指摘する。むしろ、頭を使って判断するのはキャッチャーの方で、ピッチャーの投げた球を判断して、考えて組み立てるのだ。そして、それは臨床の現場でも同じで、患者の球を受け止めて判断する臨床心理学者とは、キャッチャーのようなものなのだと、小川氏が指摘する。

なるほど、このキャッチボールのたとえは、小説の執筆や臨床心理の現場だけでなく、普段のわたしたちの人間関係のこともまた、そう言えるだろう。こちらがこの意図でこの言葉を相手に「投げた」としても、それがどう相手にうまく届くかは自分ではコントロールできない部分がある。むしろ、わたしたちが「キャッチャー」側に立ったとき、相手の意図や言葉をどう受け止めれば良いのか、頭を使って考えを組み立てなければならないからだ。

その意味では、ここでの「ピッチャー」と「キャッチャー」のたとえ話は、わたしたちの普段の生活にとっての、そしてわたしたちの人生にとっての人間関係を考えるとき、補助線のように参考になるだろう。

矛盾を抱えながら生きること

本書「Ⅱ 魂のあるところ」は、本書のタイトルにもなっているメインの部分だ。ここでは「偶然」やキリスト教の「原罪」、『源氏物語』や「人間の魂があるところ」など、ふたりの対談の流れに沿って、話題が次々に入れ替わってゆく。

その根底には、人が生きてゆくにはなぜ物語が必要なのかという疑問と、その疑問に対する経験に基づいた洞察や考察が存在する。だから、話の内容はあちこちに流れてゆくのだが、その流れはけっして不自然なものではなく、たどり着くべきところへときちんとたどり着く。

ここでのたどり着くべき場所というのは、「(矛盾を抱えた)個人を支えるものが物語」(本書p106 )なのだという小川洋子氏の言葉に表されているだろう。

そもそも「人間は矛盾しているから生きている」のだと河合隼雄氏は言う。「全く矛盾性のない、整合性のあるものは、生き物ではなくて機械」とし、だから「命というものはそもそも矛盾を孕んでいるもの」だとの見方を示す(この段落での引用の「」内は、すべて本書p105)。

だからこそ、「その矛盾を生きている存在として、自分はこういうふうに矛盾しているんだとか、なぜ矛盾しているんだということを、意識して生きていくより仕方ないんじゃないか」(本書p105)と、河合氏は主張するのだ。そして、そういった「矛盾」こそが「個性」であり、「『その矛盾を私はこう生きました』というところに、個性が光る」(本書p106)のだと結論づける。

この矛盾をめぐる考察は、「Ⅱ 魂のあるところ」の先の部分に、大人はごまかしてしゃべるという話にもつながっているように思える。会話で少しでも間が空いて居心地の悪さを感じると、大人は天気などの話題を出して、ごまかしながら会話を続けるという内容の部分だ。

本当は別のことを話したいのに、とりあえず間を持たせるために天気の話をする「ごまかし」は、ある意味では「矛盾」だと言えるだろう。考えてみれば、人間だからそのような小さな矛盾を抱えながら、それでもなんとか「ごまかし」ながら、わたしたちは日々を生きている。

さらには、そのような小さな矛盾のみならず、もっと大きな矛盾さえもわたしたちは抱えながら生きているということは、少し考えてみれば誰にも思い当たるフシがあるだろう。それは日常での会話の間を持たせるための「矛盾」もあるし、自分の人生や人格そのものを支えるための「矛盾」まで、さまざまなものがある。もちろん、わたしだってそういう類の「矛盾」など、たくさん抱えていることに簡単に思い当たる。

そうだからこそ、人間はその矛盾にどう折り合いをつけるかということが個性であり、個人を支えるために物語が求められるというここでの話題は、すんなりと理解できるし、また深く共感できる。
Cambio de hábitat / Habitat change

物語の解釈

本書「Ⅲ 二人のルート」は、小川洋子氏と河合隼雄氏の対談ではなく、小川氏の筆による長いあとがきとも言える部分だ。それは、河合隼雄氏が亡くなり、ふたりの対談がそれ以上叶わなくなってしまったことによる。だから、この部分は小川氏による河合氏への追悼文だとも言えるだろう。

ここでは、小川氏が作家としてデビューしたあと、なぜ小説を書くのかとの質問が苦痛で仕方なかったことが回想される。当時の小川氏は、書くことの意味を明確にイメージできないままの自分の未熟さがさらけ出されるようで怖かったという。

そういったとき、小川氏は河合氏による物語の解釈に触れ、「初めて、書くことの意味が何の無理もなくスムーズに心の中心へと染み込んでゆくのを感じ」(本書p126-127)、自分自身が抱えていた混沌に光が差し、新たな方向を指し示してくれたというのだ。

物語は作家だけが作るのではない。誰もが生きながら物語を作っている。作家は言葉にできない混沌を言葉にして物語を紡いで、多くの人々に提示する。だから、一見どんなに現実離れした物語であっても、「根は必ず、現実を生きる人間の内面と結びついている」(本書p127)。河合氏の物語の解釈に触れ、小川氏は物語に対する自らの見方をここで示す。

この章のタイトルにもなっている「二人のルート」とは、小川氏の体験した現実に起きた偶然の出来事を指している。上記の物語の解釈やここまで本書を読んできたことを踏まえると、そのタイトルが指し示していることが、この本全体の内容をより深く示していることがよくわかる。

もし本書が対談本ではなく、ある作家と臨床心理学者との交流を描く小説だったとするならば、本書のタイトルは『二人のルート』とした方が、よりふさわしいものになるだろう。この章は、そんなことを思わせる内容だった。

参考リンク

1)新潮文庫小川洋子河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』
www.shinchosha.co.jp

2)ブクログ小川洋子河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』
booklog.jp

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『誤読と曲解の読書日記』管理人:のび
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