誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

中上健次やジャズを知らなくても/中上健次『路上のジャズ』中公文庫

ひりつくような青春時代の背景に流れていたジャズ

中上健次『路上のジャズ』中公文庫は、中上健次のジャズに関するエッセイを中心に、詩や短編小説を一冊にまとめたもの。また、巻末には、インタビューを収める。中上健次の青春時代が、いかにジャズに傾倒していたか、うかがえる一冊だ。

冒頭の”まえがき”に相当する部分には、こんな一節がある。「ジャズは部屋に持ち込むものではなく、野生のものであり、「リラックスィン」を聴いたその頃の私も、野生だった」。ここでの「リラックスィン」とは、マイルス・デイビスのアルバム『Relaxin'』のこと。

第1部の「路上のジャズ」は、中上健次がジャズと一体化していた若い頃の日々(18歳から23歳くらいまで)をつづったエッセイだ。1960年代の新宿歌舞伎町のジャズ喫茶の雰囲気が漂う部分。中上健次のひりつくような青春時代の背景に流れていた雑音混じりのジャズレコードの音、そして歌舞伎町の喧騒が聴こえてくるようだ。

中上健次は「ジャズは、単に黒人だけのものではなく、飢えた者の音楽である」(本書p22)という。また、「路上のジャズ、野生のジャズを聴くには、町が要るし、その飢えた心が要る。語るにしてもそうである」(本書p23)。

本書は、飢えた心を抱えながら1960年代の新宿という町で生きる、若かりし頃の中上健次の軌跡をたどることができる。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

飢えた心が求める音楽を聴いているか

本書が描いているのは、今から半世紀も以前の出来事だ。けれども、ここに描かれた”飢えた心”は、21世紀に生きるわたしたちから失われてしまったものではないはずだ。

家族や友人たちに囲まれていてもどこか満たされない心、何かを求めても容易に手に入らない悲しさ、自分の将来や行く末が見つからない切なさ。そういった飢えた心は、21世紀を生きるわたしたちの胸に抱えているものでもある。中上健次が半世紀前に街で聞いたジャズは、21世紀の初頭を生きるわたしたちの心にもきっと響くはずだ。

また第1部では、中上健次の「音楽の聴き方」も、うかがうことができる。

たとえば、中上健次は長い間、子ども用のプレイヤーでバッハを聴いていたという。その子ども用のプレイヤーは、モダンジャズ喫茶のステレオ装置と比べれば、段違いに音は薄くて貧しいもので、「ちょうどサーカスで演奏される曲のようにもの哀しい」音しか出ない。けれども、それゆえに音でごまかされていた音楽の中身、音楽の骨格というべきものが伝わるのだと書いている。

わたしたちは音質にこだわって、高価なステレオやスピーカー、あるいはヘッドホンやイヤホンを探し求める。けれども、貧弱な装置から聞こえる貧弱な音の中に、”音楽の骨格”を見出す姿勢は、わたしたちに欠けている姿勢ではないだろうか。わたしたちは日々、さまざまな音楽を耳にしているが、音楽の骨格、そういうものを音楽の中に見出しているのかと突きつけられれば、まったく自信がない。

飢えた心を抱えながら音楽に耳を傾ける。切実に音楽を求めていたそんな中上健次の姿に、わたしたちは今、それほどまでに切実に音楽を求めているか、と突きつけられるような気分にさえなってしまう。そして、わたしたちが日常的に耳にする音楽は、ひょっとするとそれほど切実に聴きたいと願ったものではないのではないか、餓えた心が求めているのは、本当にその音楽なのか。そんな考えさえ思い浮かんでしまうのだ。

痛みと切なさが満ちるふたつの小説

第2部は、いくつかの詩と小説「灰色のコカコーラ」の部分。「灰色のコカコーラ」は、社会のはみ出し者が、クスリでベロベロになる話である、と書けば身もフタもない話のようだが、実際に身もフタもない話だ。

「灰色のコカコーラ」は「一ケースのドローランとモダンジャズがあれば幸福」(本書p104)な19歳の少年が主人公。この主人公、「姉のように、気違いになるのはいやだ。兄のように二十四歳になって首つり自殺するのはいやなのだ」(本書p102)と、家族が暗いバックグラウンドを抱えていることがうかがえる。だから、「ぼくは生きて生きて生き抜きたい。年をとりたくないのだ」(本書p102)と、切実な願望を抱えている。

けれども物語の最後の方では、主人公は姉や兄のたどった軌跡をなぞるかのように、正常と異常、生と死のギリギリのエッジに立つ。その姿は、わたしたちをギリギリと締め上げる。そっちには行きたくないのに、どうしようもなく身体はそちらの方へ向かってしまう。

そんな痛みや苦しさ、そして切なさがわたしたちを突き刺す。読んでいるこちらまで、クスリのせいで自意識と現実の社会がドロドロに溶け合う主人公の切なさや痛みを、ズキズキと感じられる小説だ。


第3部は、ジャズのアルバムについてのエッセイ。ひとりのアーティストの1枚のアルバムを取り上げ、それについての考察と個人的な思い出を書いている。

ここでひとつ注目するものが、中上健次が高校在学中に書いた短編小説「赤い儀式」だ。短い小説なので、エッセイの中に丸々引用されている。この「赤い儀式」は、都会の予備校に通う受験浪人が主人公で、予備校の階段の手すりから落ちることで成就する”英雄的行為”を描いている。

「赤い儀式」は、主人公の”僕”が平凡である自分から自身を解放する話であり、気だるさと興奮という相反するものが終始、この短編を支配している。

主人公の"僕”は、自分の平凡さにうんざりしている。平凡さというのは、「教室の隅でみんなに紛れこんで、群衆の一員として行動していた」こと、「自分の意見をもたず、人の指示どおりに行動し、人に影響される」こと、「ものを表面的に、観念的に観て、それを絶対だと信じている」ことだ。そんな”僕”は「いまでも特性がなく、なんの意志も持たずに暮しているのが悲しくな」るほどである(引用「」内は、すべて本書p237)。

そんな"僕”は、まるでわたしたちではないか。そんな平凡さにとらわれ、これからずっと先も平凡さにとらわれながら生きていかなくてはならないのは、わたしたちではないか。そんな平凡なわたしたちに溶け込んでしまうを、"僕”はいよいよ拒否する。そしてついに、”英雄的行為”によって"僕”は解放される。高校生だった中上健次が見抜くわたしたちの平凡さは、半世紀経った今も変わらないものであることに気づく。

路上にあったヒリヒリとした痛み

『路上のジャズ』に出てくる言い回しや社会状況が、21世紀初頭の人間から見れば、少々古臭く感じるし(なにしろ半世紀ほど前の出来事を、三十から四十年前に書いたものだから)、文章や文体の持ってまわった感じが鼻につく箇所もある。

けれども、本書にあるようなヒリヒリとした若さ特有の切実さは、大なり小なり大人になったわたしたちが通過したものでもある。あるいはいまだに、心のどこかに抱えているものでもある。そのような失ってしまったもの、まだ痛みとして抱えているものを本書を通じて思い出し、わたしたちはヒリヒリとした痛みや切実さのかすかな余韻に浸るのである。

だからこそ本書に収められたふたつの小説の主人公が抱える”飢えた心”、あるいは中上健次が抱えていた”飢えた心”が色あせることなく、わたしたちにあたかもナイフの刃を突きつけるかのように、痛みさえ伴って切実に響くのだ。

『路上のジャズ』は、中上健次の小説なんて知らなくても、あるいはジャズを知らなくても、ヒリヒリとした痛みや切実さ、そして餓えた心を抱えた人に、きっと何かが響く一冊だろう。

参考

1)中公文庫/『路上のジャズ』
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/07/206270.html

2)ブクログ/『路上のジャズ』
http://booklog.jp/item/1/4122062705

3)管理人”のび”の『路上のジャズ』に関するtweet
https://twitter.com/nobitter73/status/768435307448377344
https://twitter.com/nobitter73/status/768437504923926529


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