誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

正直、何が評価されたのか/今週のお題:わたしの自由研究

正直、何が評価されたのか/今週のお題「わたしの自由研究」:目次

※この記事は、はてなブログの「今週のお題」に参加するものです。

橋やトンネルの数

小学生だったわたしは、メモ帳と鉛筆を手に父親の運転する車の助手席に乗っていた。後部座席には母親と兄弟。車は宮崎県と鹿児島県を結ぶ高速道路を鹿児島方面に向かってひた走っているところだ。

川にかかる橋がやってくるたびにわたしはメモ帳の「正」の文字を一画足してゆく。あるいはトンネルに入るたびに「正」の文字を一画足す。わたしは橋のひとつ、トンネルのひとつでも記録しようと、常に前方の風景に注意を払っていた。またひとつトンネルが近づき、わたしはメモ帳に線をひとつ書き加える……。

これは小学生だったわたしがまさに自由研究をやっているときの様子です。夏休みに行われたささやかな家族旅行のついでに、旅行中にどれだけの数の橋やトンネルと遭遇したかの数をカウントし、それを自由研究として発表したことがある。

なぜか入賞してしまった自由研究

もちろん、橋やトンネルの数を数えただけでは物足りない。だから、旅行後には画用紙を複数枚使って一枚の模造紙のようにつなげた大きな紙を作り、そこに宮崎県や鹿児島県の南九州の地図、町と町の距離や所要時間といったデータをうまい具合に地図に書き込むという自由研究だったはずだ。

なぜ、そんなものを自由研究のネタにしようと思い立ったのか、今となっては覚えていない。よほどネタに困っていたのか、あるいは母親あたりから「こんな自由研究はどう?」と持ちかけられたのか。

とにかく、小学生だったわたしは熱心に、当時住んでいた宮崎市近郊の小さな町から指宿までの道のりのあいだ、ずっと熱心にメモを取っていたわけであります。すっかりいい大人になった今なら到底そんなことはできない。子どもって謎の実行力がありますな。

とにかく、このときの自由研究、町の小学生を対象にした自由研究のコンクールみたいなもので入賞を果たして、町の文化施設みたいなところに展示されたのだった。正直、何が評価されたのか、いまだに謎である。

人々はなぜ「自由研究」を苦手とするのか?

さて、「自由研究」なる夏休みの課題、いまだになんなのかよくわからない。「自由研究」が得意だったとか、「自由研究」が楽しかったと聞くことはほとんどない。わたしもまたどちらかといえば「自由研究」が苦手だった子どものひとりだ。あまりに漠然とした「自由」を前に立ちすくんでしまったからだ。

それに加え、「自由」と銘打ってはいるものの、ある程度は学校の先生の反応や夏休み明けに控えているであろう「夏休みの自由研究コンクール」的なものを意識せざるを得ない面も否定できない。そういった忖度的な態度がまた「自由研究」を苦手とさせる一因ではなかったか。

また、夏休みになると書店や文具店、あるいはホームセンターなどに「夏休みの工作セット」みたいなものが山積みになっている光景も、今ではすっかりおなじみの光景ですね。バルザ材を接着剤でくっつけて絵の具を塗るだけの貯金箱や、プラモデル的な部品を組み立てることによって完成する、太陽光で走るクルマの組み立てキットなど。

そういう自由研究の成果をカネで買うような行為も「自由研究」とはちょっと違うような気がする。手っ取り早く説明書通りに組み立てるだけの自由研究に「自由」な意思はどこまで反映されているのか。そういうのはさすがにちょっとなあという気持ちもある。

そういった要因が、人々に「自由研究」を苦手にさせるのではないかなと思うわけですね。

自由研究とは何か?

まあ、バルサ材の貯金箱の組み立てキットを買ってきたものの、いざ組み立てる段になり、俄然、工作を組み立てるのが面白くなって、工作キットにあらかじめ用意されていた材料のみならず、ペットボトルのふたとか空き箱やアルミホイルの切れ端なんかを組み合わせていったら、けっきょく貯金箱じゃなくて宇宙基地を組み立てていたということだって考えられるから、一概に市販の自由研究の組み立てキットを否定するつもりはない。

でも、貯金箱を作っていたつもりだったのに、工作する行為自体が面白くなってしまい、いつの間にか貯金箱が宇宙基地になっていたというのは、じゅうぶんに「自由」な意思の結果であり、「自由」な行為の結果だとも言えるだろう。

その意味で「自由研究」とは、いやいやながらでも何かに取り組んでいるうちにその何かの楽しさに気づき、「自由」に発展や応用を追求する姿勢そのものが理想とされているのかもしれない。

大人になっても「自由研究」している人々

大人になっても「自由研究」に取り組んでいる人々はおおぜい見かけますね。それは趣味のブログを書き続ける人々のことだと言っていいだろう。たとえば、このブログは基本的に読書の感想やたまに文具のことを書いている。このブログのように読書ブログをつけている人も数え切れないくらいにたくさんいる。

あるいはアニメでも鉄道でもアイドルでもお城でもミリタリーでも写真でもプロスポーツでも、とにかくありとあらゆる分野に興味関心を持った大人たちがブログやSNSで「自由」に情報を発信し続けている。興味関心を持った物事を深く探求し、データを集め、その物事に関する課題を探り、将来像を見出していく、そんなブログははてなブログだけでもたくさんありますね。

そういう意味では、趣味ブログを開設している人々は大人になっても「自由研究」を続けている人々だと言っていいだろう(もちろん、そこには大人だけではなく、未成年もいるだろうが)。我々はてなブロガーはいつも「自由研究」に取り組んでいる人間なのだ。それなのになぜ、子どもの頃、あんなに「自由研究」がイヤだったと口にする人々が多かったのだろう。永遠の謎である。

さて、冒頭のトンネルや橋の数を数える自由研究、子どもだったわたしは往復ともにきちんとカウントしたわけですね。よく考えてみれば、往復のルートはほぼ変わらないのだから、橋やトンネルの数だって大きく変わることはないにも関わらず。そういうのを考えると、子どもの頃のわたしはどこか抜けていたんだなあとしか思えない。まあ、今もそんなに変わらないと言われればそうかもしれないが。


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『誤読と曲解の読書日記』管理人:のび
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