わたしたちの意思が適切に反映されるための方策を探る一冊/坂井豊貴『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』岩波新書:目次
人々の意思をよりよく集約できる選び方を探る
坂井豊貴『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』岩波新書
本書はタイトルのとおり、まず「多数決を疑う」ことを目的としている。わたしたち有権者は、選挙などに多数決が採用され、その結果にとりあえず従うのが正しいと自明のこととして受け入れてはいるが、その多数決の意見が本当に多数の意見を反映しているのだろうか、という疑問が本書の出発点である。
「自分たちのことを自分たちで決めるためには、どうすればいいのか。これは思想的な問題であると同時に、技術的な問題である」(本書はじめにp-viii)との立場から、本書は社会的選択理論を用いて多数決を精査し、人々の意思をよりよく集約できる選び方(集約ルール)の代替案を探っていく。
第1章「多数決からの脱却」では、「そもそも多数決で、多数派の意見は常に尊重されるのだろうか」(本書p6)との疑問を提示する。この章では、はじめに2000年のアメリカ大統領選挙の例を取り、「多数決」によって「多数派」(ここでは「少数派」ではないことに注意)の意見が、常に尊重されるわけでもないことを提示する。
たとえば、2000年のアメリカ大統領選挙においては、事前の世論調査では民主党のアル・ゴア氏が有利との結果が出ていた。しかし、第三の候補としてラルフ・ネーダー氏が立候補すると、ゴア氏と主張が重なったネーダー氏がゴア氏の票を奪い、結果として共和党のジョージ・W・ブッシュ氏が大統領に当選した。
このアメリカ大統領選挙の例からわかることは、たとえ多数派の人々であっても、多数決は有権者が「自分たちの意思を細かく表明できない・適切に反映してくれない」(本書p10)という無力感を生み出す場合があることを、この例では示すのだ。
去年(2016年)のアメリカ大統領選挙でも、得票数ではヒラリー・クリントン氏の得票の方が、ドナルド・トランプ氏よりも多くても、(選挙人制度という制度的な理由もあって)トランプ氏が当選したことは、わたしたちの記憶に新しいところだ。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
多数決なるものが、絶対的に正しいものではない
わたしは「社会的選択理論」という言葉を個人的に初めて聞いた。本書にも「社会的選択理論」やそれに則った集約ルールを説明するために、数学的な理論や処理も登場して、ややとっつきにくい印象を受ける。けれども、本書は初心者のための入門編的な位置付けとして書かれたものなので、わたしのような「社会的選択理論」についてはまったくの素人でも、ちゃんと結論まで読めば、「ああ、なるほど。そういうことかあ」と、とりあえず納得できる書き方になっている。
さて、本書の中では「社会的選択理論」に基づいたさまざまな「集約ルール」を見ていくことになる。もちろん、本書で取り上げられる集約ルールも、メリットとデメリットがある。本書はそのメリットとデメリットを、あくまでも技術的な観点から眺めてゆく。
この「集約ルール」(本書p10)とは、「投票において多数の人々の意思をひとつに集約する仕組み」(本書p10)のことを言い表す言葉だ。多数決もこの集約ルールのひとつに過ぎないわけだが、先にあげた有権者の無力感は、この集約ルールが自分たちの意思を適切に反映してくれないことに、少なからず起因するのではないだろうかとの仮説を筆者は表明する。そして、そうであれば集約ルールを変更することにより、「より改善できるはずだ」(本書p10)とする。
第2章は「最後の啓蒙主義的知識人」(本書p35)と呼ばれるコンドルセが追求した、さまざまな集約ルールを見ていく。そこでは「どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わる」(本書p49)ことを明らかにする。そこで、わたしたちができることは、「民意を明らかにすることではなく、適切な集約ルールを選んで使うことだけ」(本書p50)だと著者は主張する。なぜなら、「集約ルールが満たす規準について考察するほうが論点ははるかに明確になるし、恣意的な判断を避けやすくなる」(本書p50)からであるとする。
ここでは「民意を明らかにすること」よりも、「適切な集約ルールを選んで使うこと」の方が、優先されるという主張に面食らう人もいるかもしれない。でも、現状の多数決それ自体が、民意を正確に示すことができない面があり、その理由として多数決という集約ルールそのものが不適切ならば、より適切な集約ルールを考察した方が、より民意も適切に反映したものが示される、ということであろうと、わたしは理解した。
多数決に正当性を与えるために
第3章ではコンドルセの問題意識、「多数決の判断が正しい確率はどれほどのものになるか」との疑問から出発する。そこではまず、陪審定理を紹介しながら、「投票において有権者は、自分だけに関わる私的な利益ではなく、自分が関わる公的な利益への判断を求められている」(本書p70)との、コンドルセの認識を明らかにする。
ここでの「自分だけに関わる私的な利益ではなく、自分が関わる公的な利益への判断」をするのは、ひとりの人間にとって、相当難しい作業になるだろうとわたし自身は感じる。そこでは、判断に関する情報が適切に与えられていることが必要になるし、偏見や思い込みで物事を判断しない態度が必要となる。さらには「その場の雰囲気に流されたり、勝ちそうな方を予想してそちらに投票したりしない」(本書p68)ことも求められる。
けれども、そういった有権者側の態度が、多数決による決定のもとで、少数者が多数者に従わなければならない正当性の根拠となる。この「多数決をめぐる最大の倫理的課題は、なぜ少数派が多数派の意見に従わねばならないのか」(本書p71)との疑問に対する答えを、この第3章では読み解いていくことになる。
そこで登場するのが、ジャン=ジャック・ルソーだ。ルソーの提唱した「一般意志」とは、「自己利益の追求に何が必要かをひとまず脇に置いて、自分を含む多様な人間が必要とするものは何かを探ろうとすること」(本書p76)である。ここでの議論は、ルソーの「一般意志」をみていきながら、どのような条件のもとで、「少数派が多数への投票結果に従うのが正当なのか」(本書p81)を探ってゆく。
しかし、多数決に正当性を与えるためには、相当にハードルが高く、困難にも思えてくる。たとえば、先に挙げた「自己利益の追求に何が必要かをひとまず脇に置いて、自分を含む多様な人間が必要とするものは何かを探ろうとすること」(本書p76)との部分でも、わたしたちが常に投票の際に自己利益を排除して、公的な利益に何が必要か考えているのかを考えると、とたんに心許なくなってしまう。
また、本書では「人々が熟議的理性を働かせた投票でなければならない」(本書p81)ことや、「投票の対象は、そのような熟議的理性の行使が可能となるものでなければならない」(本書p81)ことまでをも、求められている。個々人のできる判断のことを考えると、そもそも多数決なるものが、人間にとって無理なのではないかとさえ思われてくる。
まさに「ルソーの描いた範型と現行社会との差異」(本書p94)の、あまりの大きさに、わたしたちは当惑してしまう。だからこそ、わたしたちは立憲主義や二院制の導入によって、「多数決より上位の審級を、防波堤として事前に立てておくこと」(本書p82)が求められるのだと著者は主張するのである。
憲法改正についての多数決
第4章ではまず、代表制(間接民主制)における有権者と代表の関係をみてゆく。コンドルセは、「代表制に特有のメリットである議場における熟議の可能性」(本書p98)を見出していたからだ。もちろん、コンドルセの想定する代表は「有権者が代表を選出する際に、候補者の諸問題への判断力を基準として選ぶ」「信託」(ともに本書p99)に基づくものである。
そのような代表で構成される議場では、熟議を通して論点を明確化し、各自一番と判断する選択肢たちの中から皆で妥協し、折り合いをつけた選択肢を見出していくことが期待される。けれども、議場における多数決には、票の割れや戦略的操作、棄権などの難点がある。そのような難点を克服するための集約ルールを探っていくのが、この第4章である。
第4章で印象的だったのが、憲法改正についての多数決に関する部分。
現行の日本国憲法の下では、96条に衆参で3分の2以上の賛成案を得た改憲案について、さらに国民投票にかけ、そこでさらに過半数が賛成すれば、その改憲案が採用される規定となっている。けれども、この国民投票の過半数が賛成すればいいという前提自体が、本当に多数意見を反映するものなのかどうかとの疑問を提示し、それは必ずしも保証できるものではないと本書では結論づける。
本書は憲法96条の改正規定について、なぜそう言えるのかを社会的選択理論に基づき、論理的技術的な観点から説明する。そこでは、多数意見に正当性を与えるには、約64%の賛成が必要だとし、現行の国民投票で可搬性の賛成を得るとの規定は、根拠が弱いものと位置付け、より改憲しにくい方向への改正が必要だと主張する。
ここから導き出される結論としては、憲法96条に定められた憲法改正規定を改憲によって改めるには、そもそも現行の憲法の規定に基づいて、国民投票の過半数の部分を「約64%以上の賛成」ないしは「3分の2以上の賛成」と改めなければならない、となるのだろうけれども、本書ではこのあたりまで踏み込んだ議論はしていない。本書はあくまでも、技術的な観点から論じるとの立場のためだ。
つまり、憲法改正のための規定を、多数意見に正当性を与えるための規定に改めるためには、まず改憲しなければならないし、その手続きのためには、現行憲法に則れば国民投票の過半数の賛成でいいというジレンマや矛盾を抱えていると思うのだが、このあたりのことは本書では触れられていない。
民主主義に必要なコスト
繰り返しになるが、本書では「多数決を疑う」ことを目的とし、投票において多数の人々の意思をうまく反映させるための仕組みのあり方を探ってゆく。そのように、本書で挙げられているような多数意見を反映する集約ルールを、実際の民主主義制度に組み込むには、相当なコストがかかるだろうとの思いが浮かぶ。
そこで、第5章では現行の代表民主制の枠内でできる方策を探ってゆく。具体的には「小平市の国道328号戦問題」を引き合いに出しながら。そこで浮き彫りになるのは、多数決さえまともにさせてもらえない現状のあり方だ。そしてここではひとまず、金銭単位を尺度とする審査のあり方を模索する。
本書を読み進めていくうちに、わたしたちが自明のものとしている多数決なるものが、絶対的に正しいものではないことが明らかになってゆく。その過程を眺めているうちに、わたしたちが依って立つ世界の根幹が、グラグラと崩れてゆくようにさえ思えてくる。
わたしたちはともすれば、多数決原理を採用している民主主義の下での決定が、「多数決で決めたことだから正しい」「選挙で多数を取った方が正しい」と、当然に正しいものだというふうに捉えてしまいがちだ。けれども、その多数決自体が、民主主義の根幹を揺るがすもの、もっと言えば民主主義さえも壊してしまう危険性を含んでいることが、本書を読むと理解出来る。
だからこそ、わたしたちの意思が適切に反映される制度設計がなされるよう、わたしたちの側もまた熟議的な態度が求められているのだと言えるだろう。
参考リンク
1)岩波新書/坂井豊貴『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』
https://www.iwanami.co.jp/book/b226328.html
2)ブクログ/坂井豊貴『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』
booklog.jp
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