どうせ読書するのなら、少しでも楽しく読書をしたい
小さい頃から読書は好きで、今も習慣というか日常生活の一部として読書を続けている。
なぜ読書をするのか? と問われれば、「単に読書が楽しいからだ」、としか答えようがない。当たり前だが、「楽しいから習慣として続いている」ということだ。
では、なぜ読書が楽しいのか? という疑問には「自分を忘れて没頭できるものだから」というのが、ひとつの答えになろうかと思う。
さらに、「自分を忘れて没頭できる楽しい行為は、何も読書に限らず、他の趣味でもスポーツでも、あるいは人によっては仕事でもいいのに、なぜ読書なのか?」との疑問もあるだろうが、これはもう「たまたま自分にとってのそういうものが読書であっただけ」としか、もはや答えようがない。
自分にとっての読書とは
そういうわけで、自分にとっての読書は純粋に個人の楽しみというわけです。
だからここでいう、自分にとっての「読書」とは、自己啓発書やビジネス書のようにすぐに、何かの役に立つ実際的な知識やノウハウを仕入れるための読書ではない。個人の楽しみなのだから、何の役にも誰の役にも立たない、ただひたすら自分が楽しむだけのものである。
人によっては職業上、必要な知識やノウハウを仕入れるために本を読まなければいけないということもあると思うが、そういった読書というものも、上記のような意味で、ここでの「読書」からは外れる。
ここで取り上げる自分にとっての「読書」とは、「直接何かの役に立つかどうかは分からないが、精神の緊張や精神的な背伸びを必要とする読書」ということに、自分なりに定義しておこう。具体的には、主に文学書や人文書を読む読書のことを指す。
「精神の緊張や精神的な背伸びを必要とする読書」というのは、齋藤孝さんの著書『読書力』(岩波新書)にある「精神の緊張を伴う読書」のこととほとんど同じ意味になろうかと思う。
要は「エンターテイメントとしておもしろいというだけの読書を乗り越えた感覚をもった本」(これは『読書力』からの引用)を読むことであり、すなわち、文学性の高い小説などの読書のことを指す。
このあたりの詳細は『読書力』を読んでいただくとして、自分の読書についての話に戻る。
純粋な個人の楽しみとしての読書
繰り返すが、自分にとっての読書は、純粋に個人の楽しみである。
しかし、ただ精神の緊張や精神的な背伸びを必要とする読書といっても、そういった緊張を伴う読書というものは、精神的にも肉体的にも疲労を伴うものでもある。少なくとも自分にとってそうであるし、これはおそらく自分だけではなく、多くの人もそうであるかもしれない。
読書というのは精神的な営みではあるが、肉体的な営みでもあるからだ。
座っていたり寝転んでいたりしても、ある程度の思考を伴うから、その意味での疲労というものはどうしても発生してしまう。
そしてそのことが、人によっては読書から遠ざかる一因にもなるのかもしれないなと、ふと思ったわけです。
結果として、本を手に取る機会も減ってしまうかもしれないなと。
少しでも楽しく読書をしたい
そこでわたしは、どうせ読書するのなら、少しでも楽しく読書をしたいということで、読書の楽しみを増やそうと、しおりやブックカバーに少し凝るようにした。
そういった読書グッズに凝るといっても、高価なものではなく、数百円で手に入るものばかりなのだが。
わたしは、たとえば無印良品で買ったジーンズラベルを使ったブックカバーや、ネットや書店で見かけた気に入ったデザインのブックカバーを日常的に使っている。
しおりについても、書店や文房具店で見つけたクールなデザインのものを買ったり、友人知人からお土産などでもらったりしたしおりを使っている。
本を手に取る行為を楽しいものに
このように、自分のお気に入りの読書グッズをいくつか集めると、それらとともに外出時に本を持って出かける機会も増えた。
まとまった読書の時間が取れなくても、外出先のちょっとした空き時間や待ち時間、あるいはカフェに入って休憩する時間や食事の待ち時間などに、お気に入りのデザインをしたブックカバーをまとった本を取り出せば、読書することも楽しくなる。
そのように、まずは本を手に取る行為を楽しいものにしていけば、普段は読書する週間のない人にとっても、読書のハードルが下がり、読書という行為もまた楽しいものになるかもしれないと思うのだがどうだろう。
ただ、読書に伴う疲労というものが、それで少しでも軽減できるかと言われれば、それはわからない。でも、ただ何もしないよりは、楽しさは増すと思う。
もちろん、普段から読書する人にとっても、ますます読書がはかどって仕方なくなってしまう恐れがありますが。
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