誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

手書きで書く機会を増やしているという話

最近、手書きで文字や文章を書く機会を意識的につくっている。

そもそも手書きの機会を増やすきっかけになったのは、1年数ヶ月ほど前に、部屋の掃除をした際、子どもの頃に使っていた鉛筆が、ある程度まとまって出てきたことによる。
それで、これらの鉛筆をそのまま捨てるのも忍びないので、鉛筆を使っていこうと思い立ったからだ。
それ以来、メモはもちろん、読書の記録や日記など、手書きする機会を意識的に増やしている。

手書きを増やしてみて気づいたこと

さて、手書きを増やしてみると、静かに紙に向かって集中できるのが、手書きの良さだと気づいた。
紙に向かって文字を書く行為は、ある程度の集中を必要とする行為なのではないかと、思ったわけです。

これはもちろん、個人差があることかもしれないが、パソコンやスマートフォンのディスプレイに向かうと、手早く何かを入力するようにと、常に追い立てられているような感覚を抱くこともある。

極端に言えば、キーボードをカチャカチャと音を立てて、何かを入力していないと、真っ白いディスプレイから、無駄な時間を過ごしているんじゃないですか、と言われているような感覚だ。

一方で、紙――例えば、広げられたノート――に向かうと、キーボードを打つ時のような「常に何かに追いかけられている」ような感覚を抱くことは無いような気がする(当然ながら、この感覚には個人差があるので、そう感じない人もたくさんいるのかもしれないが)。

手書きで文字や文章を書くということは、ノートを広げ、そこに書いた手書き文字を一覧することで、自分の思考の軌跡を眺めることができることでもある。

また、自分の書いたある言葉やフレーズが気になったら、その周囲に別の言葉や言い回しの候補を並べ、どれが一番ふさわしいのかを、じっくりと考えることもできる。

その分、何かに追い立てられるような感覚を抱くことなく、自分の思考を深めることができるような気がするという、そんな感じがするのだ。

そしてそのように、じっくりと紙に書いた手書きの文字や文章を眺め、思考を深めることは、自分と深く向き合うことであるとも言えるのではないか、とも思う。

自分の立ち位置やこれから向かうべき場所がいっそう見えてくる

先に、手書きの良さは集中ができることと書いたが、これは、自分とじっくりと向かい合うことができる集中と、言い換えることもできるのかもしれない。

自分が何を書いて、何を主張したいのか、自分がどのような種類の情報を必要としているのか、自分と向き合うことで、つまりは自分の立ち位置やこれから向かうべき場所みたいなものがよりいっそう見えてくる。そんな気がする。

もちろん、パソコンやタブレット端末、それにスマフォも日常的に使い、文字を入力している。
そういったデジタルツールに囲まれた日常だからこそ、手書きで文字を書く時間は、かけがえのない大切な時間とも言えるのではないか。

手書きの機会を増やしてみて、そんなことを感じたわけです。

この文章は手書きで下書きし、校正した後、キーボードで打ち込んで書いたものです。

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