誤読と曲解の読書日記

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半分しかなかった世界の、もう半分を取り戻すために/E・ケストナー(池田香代子訳)『ふたりのロッテ』岩波少年文庫

半分しかなかった世界の、もう半分を取り戻すために/エーリヒ・ケストナー池田香代子訳)『ふたりのロッテ岩波少年文庫:目次

半分しかなかった世界の、もう半分を取り戻すために

エーリヒ・ケストナー池田香代子訳)『ふたりのロッテ岩波少年文庫

ふたりのロッテ』は、互いのことを知らないまま別々に育った、ふたごのルイーゼとロッテが主人公の物語。ある夏、ルイーゼとロッテは偶然にも出会い、互いがふたごだと確信する。そこで両親の離婚した理由を探り、仲直りさせるために、ある大胆な計画を考えつく……、というストーリー。

それまでの自分の世界が、実は半分しかない世界であり、もう半分の世界と突然出会ってしまった。自分たちが築いてきた今までの世界は、実は自分たちの世界の半分しかなかった。これは自分のルーツやアイデンティティに関わる問題である。自分がどんな両親から生まれ、どんな姉妹がいたのか。だから、もう半分の世界を見るために、ふたりはそれぞれそっくり入れ替わってしまう大冒険へと漕ぎ出すのだ。

偶然に出会ったふたりは、「子どもの家」(女の子が夏休みを過ごす施設のこと)で、互いのことを知ろうとずっと離れずに過ごす。けれども、互いのことを知れば知るほどに、わからないことも次々に出てきてしまう。

たとえば、ふたりの両親がなぜ離婚したのか、その理由はわからない。両親はふたりが物心つく前の小さな頃に離婚し、そのあとも離婚した理由を娘たちに教えてこなかったからだ。そもそも自分たちがふたごだったことも初めて知ったし、互いの親が生きていることも知らなかった。だから、ルイーゼとロッテの頭には、残り半分の世界を知るための、たくさんの疑問が湧いてくる。

なぜ、父はウィーンで母はミュンヘンに住んでいるのだろうか?
なぜ、親は自分たちがふたごだと教えてくれなかったのか?
なぜ、それぞれの親は互いのもう一方の親が生きていると教えてくれなかったのか?

そしてふたりは服も髪型も取り替えて、そっくりに入れ替わる。ルイーゼはロッテになってミュンヘンへ、ロッテはルイーゼになってウィーンへ向かう。そうした疑問と解くために。家族を再生させるために。半分しかなかった世界の、もう半分を取り戻すために。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

ルイーゼとロッテの両親について

この物語で描かれているのは、むしろ大人の側の変化である。あるいはその「変化」を「成長」と言い換えてもいいだろう。ルイーゼとロッテがそっくり入れ替わったことに気づかなかった両親。そんな両親は、はじめのうち、自分たちの娘の微妙な「変化」に少しずつ気づき、その「変化」を「成長」ととらえる。

ふたごの母親であるルイーゼロッテ・パルフィー(結婚前の苗字、ケルナーを名乗っているので、以降はケルナーと表示)は、「年のわりにはまじめすぎる」(本書p27)ロッテのことを、「ちいさなお主婦さん」(本書p28)と呼んでいた。しかし、それも自分が都合よくロッテを「子どもとしてあつかってあげずに」(本書p114)、「聞きわけのいいおさない子どもを、主婦に仕立ててしまっていた」(本書p114)ことに気づく。

ふたごの父親であるルートヴィヒ・パルフィーは、ウィーン歌劇場の常任指揮者。この父親は、少々問題を抱えている。ルートヴィヒは作曲も手がけているが、作曲のアイデアが浮かぶとすぐに自分の家から飛び出し、少し離れた場所にあるアトリエに駆け込んで、ひとりでじっくりと作曲に打ち込んでしまう「変わり者」(本書p79)とされている人物だ。

ルートヴィヒは結婚してふたごが生まれてからも、作曲のために孤独になりたいとさえ望んでいた。ルートヴィヒはふたごの赤ちゃんと若い妻をおいて、自分の家から離れたところにあるアトリエに駆け込む生活を送っていた。さらに、今度は若い歌手の歌の稽古をつけているとの話があった。当然のように、ケルナーはすぐに離婚届を突きつけた。

このルートヴィヒも、夏休みのあと、自分の娘の「成長」に少しずつ気づきはじめる。以前は、仕事にかこつけ、家を留守にすることの多かったルートヴィヒもだったが、ルイーゼが家計を管理しはじめ、家の中に花を飾るようになると、自分の家でルイーゼとともにいる時間が長くなってくる。ルートヴィヒは「変わり者」で芸術家肌の人物であったが、ルイーゼの「成長」とともに、自分もまた現実的で家庭的な人物へと変化してゆくのだ。

ある意味では、ケルナーもルートヴィヒも、わずか9歳の娘に大人として振舞うことを暗に望んでいた。自分たち大人にとって都合の良い子ども、あるいは「小さな大人」であるように、娘たちに望んでいたのだ。それはやはり、9歳の子どもにとっては不健全なことであり、歪んだことである。

ケルナーとルートヴィヒは、自分たちがそのような不健全さと歪みを抱えていることに、ルイーゼとロッテの「成長」を目の当たりにすることで気づいた。そして、自分たちもまたひとつ「成長」するのだ。そういう意味では、子どもの心を忘れてしまった、わたしたち大人もまた、ケルナーやルートヴィヒのようなところがないかと、物語を読みながら思わず自分たちを省みてしまうのである。

大人になった今、この物語を読む意義

この『ふたりのロッテ』は、子ども向けの児童文学だが、大人にとってこの物語を改めて読む意義はなんだろう。そのヒントは、物語の中に出てくる、シャーリー・テンプルのエピソードを読み解く部分にあるだろう。

数々の映画に出演した有名な子役シャーリー・テンプル。シャーリーが7つか8つの頃には、世界的に有名だったという。ところがその時代、子どもが映画に出演することは許されていたが、子どもが映画を見ることは禁止されていた。だから、シャーリーが自分の出演している映画を観に行くと、映画館への入場を断られたというエピソードが、作者のケストナーによって披露される。

このエピソードは、いったいどんなことを示しているのだろうか。それは子どもであっても、問題の本質の渦中にいる場合があるはずなのに、大人はその問題について話すとなると、子どもを締め出してしまう。だから、親の問題のせいで、子どもにつらい思いをさせるのなら、子どもときちんと話し合わないのは、間違っているのだとケストナーは物語の中で主張する。

ルイーゼとロッテもまた、大人の抱えている問題から締め出されたことで、離れ離れで互いの存在すら知らないまま育ってきた。それは不健全なことであり、歪んだことでもある。もちろん、両親が離婚することや離婚した親の元で子どもが育つことは、不健全なことではないし、歪んだことでもない。離婚することで、あるいは離婚しないことで子どもにつらい思いをさせてはいけないと、ケストナーも書いている。

不健全であり歪んだことであるのは、離婚した理由や実はふたごの姉妹がいることを、子どもに教えないまま秘密にしておくことであり、あくまでも、子ども自身のアイデンティティやルーツに関することを親が子どもに秘密にしたままでいることが、不健全であり歪んだことであるのだ。

だからこそ、この物語の抱える不健全さや歪みが修正されるべく、ルイーゼとロッテが物語の冒頭で出会い、互いに入れ替わってしまうことを思いつき、実行に移すのだ。わたしたち大人は、そんな不健全さや歪みを子どもの世界に持ち込んではいけないというのが、この物語のひとつの教訓であり、ケストナーの主張したいことだったのではないだろうか。

この物語について

エーリヒ・ケストナーの『ふたりのロッテ』は、1949年に発表された作品。第2時世界大戦終了後、ケストナーが初めて発表した作品だが、ケストナーはこの作品を戦争中にいったん書き上げている。

発表が戦後になったのは、ケストナーナチス政権から自由な執筆活動を禁じられていたため。ケストナーはネチスを批判したため、「命の危険にさらされながら、政府に目をつけられている人物として、社会からひどい仕打ちを受けながら」(本書訳者あとがきp223)、この作品を執筆したようだ。

なお、この作品は映画化を念頭に書かれたもの。そのために、地の文はシナリオのようにト書きで現在進行形となっているが、それが逆に展開のスピード感を出している。

参考リンク

1)岩波少年文庫/『ふたりのロッテエーリヒ・ケストナー池田香代子
https://www.iwanami.co.jp/book/b269613.html

2)ブクログ/『ふたりのロッテエーリヒ・ケストナー池田香代子
booklog.jp


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