読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

辞書への敬意と愛情に満ちた物語〜三浦しをん『舟を編む』光文社

本書は出版社の辞書編集部に勤める主人公を中心に、新しい国語辞典が編まれてゆくまでの過程に関わる人々の思いを描き出す物語である。

ひと口に辞書ができるまでと言っても、本書の中では十数年、あるいは数十年の年月が流れる。

わたしたちが普段使う辞書は、上記のように、世に出るまで膨大な時間が必要だといったことなど、辞書をつくりだす世界はわたしたちにとって知らないことの方が圧倒的に多い。

本書は、わたしたちの知っているようで実は何も知らない辞書づくりの過程を、それを取り巻く人々の思いを絡めて描く物語だ。

言葉を集める

時代の移り変わりとともに言葉自身が新しく生まれ、あるいは逆に消えてゆき、言葉の意味も使い方絶えず移り変わりゆく。辞書もまた一度世の中に生まれ出ても、その内容が時代にそぐわなくなってゆく。

そこで言葉の変化に対応するため、新しい言葉や、新しい意味や使われ方などを集める必要がある。そこで辞書の編集者や編集部の担当者は、そのような言葉を集めるために「用例採集カード」なるものを使う。

※注)ここでは、「辞書編集者」を「国語辞典の表紙などに名前が載る、大学教授などの言葉の専門家」、そして「辞書編集部の担当者」を「出版社の辞書編集部に勤める、辞書の編集作業に携わる職員」との意味で使用する。

編集者たちは常にこのカードを携帯し、会話やテレビ、出版物などで見聞きした新しい言葉や使われ方をメモすることによって、「用例」を「採集」する。このカードは常に新しく作成され、または追加されてゆく。

このカードは辞書に載せる言葉を集めるためのもので、辞書づくりの心臓部である。そういった用例採集カードの膨大な蓄積によって、辞書に掲載される言葉や意味や用例が決まるという。

辞書に掲載される言葉や意味、用例の取捨選択の裏側には、そのような編集者たちの努力があるのだ。そのことを思うと、辞書に載る言葉のひとつひとつが努力の結晶であり、その結晶のひとつひとつが愛おしく感じられてくるではないか。

用紙への愛情

辞書に使用される用紙もまた、言葉と同様に人々の思いが乗せられたものだということを知った。

本書では、ページ数が膨大な辞書は、他の書籍よりもずっと薄いものを使うとある。重量があって紙がかさばると、途端に使い勝手が悪くなってしまうからというのが理由だそうだ。

実際に同じくらいのページ数を使って、本書と辞書の紙の厚さを比較してみた。

舟を編む』の単行本の本文は約260ページ、厚さを計ると約1.6センチ。手元にある『岩波国語辞典』の260ページ分の本文用紙の厚さは約0.7センチ弱。

このように同じくらいのページ数でも、厚さは約半分となる。辞書がそれだけ薄い用紙を使っていることがわかる。

また『岩波国語辞典』の1枚1枚のページは薄いが、かと言って、脆さや頼りなさを感じさせることはなく、しっかりと1枚のページをめくることができる。

たとえば本書では、辞書用紙の色合いについて、ぬくもりのある色が出るまで紙の原料や薬剤の配合などを試行錯誤することが語られる。また、手触りについても“ぬめり感”と呼ぶ、「指の腹に絶妙に吸い付き、それでいて複数のページがめくれてしまうことのない感じ」が現れるまで、何度も試作を繰り返す様子が描かれる。

岩波国語辞典』の本文用紙は真っ白ではなく、ほのかにクリーム色のかかる白色で、目に負担をかけない色合いをしている。ページの用紙も柔らかく、指に絶妙に馴染む感覚を覚える。

このように、辞書に使われる用紙にまで、「ページをめくる人に無用なストレスを与えないように工夫がなされて」いることがわかる。

それらの本文用紙への試行錯誤や工夫は、読者の使い勝手の向上を目的とするものだ。けれどもそれは同時に、少しでも良い辞書をつくりたいという、ある意味では辞書に対する愛情といっても良い思いが込められているのだとも言えよう。

言葉の海を渡る舟

本書では辞書を「言葉の海を渡る舟」と位置づける。
言葉は常に変化し続ける。意味も使い方もまた、日々変化する。
言葉の世界というのは、常に不安定な大海原のような世界だ。

そんな不安定な大海原を渡るために、我々は辞書という舟を必要とするのだと、わたしは思う。我々が依って立つべき舟がなければ、大海原を目の前に立ちすくむか、あるいはあっという間に大海原へと呑まれてしまうだろう。

辞書編集者や辞書編集部の担当者は、我々が大海原へと漕ぎ出すための「舟を編む」人々である。舟を編む人々は、我々が乗り込むにふさわしい舟、海を渡るにふさわしい舟を情熱を持って編み続けるのだ。

本書は舟を編む人々の情熱の一端をうかがうことのできる、辞書への敬意と愛情に満ちた物語だ。そして同時にわたしたちもまた本書を通じて、辞書への敬意と愛情をより深く抱くことになるだろう。わたしが実際に、そんな思いを抱いたように。


twitterのアカウントは、nobitter73です。

【参考】

光文社内『舟を編む』特設サイト
http://www.kobunsha.com/special/shiwon/funewoamu/