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誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

たとえ敗北が運命付けられていたとしても/アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』新潮文庫

読書

ヘミングウェイのたどり着いたひとつの頂点

アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』(福田恆存訳/新潮文庫)を久々に読んだ。短い物語だから、多くの人々が一度は手に取ったことのある作品だろう。

老人と海』のストーリーを簡単に説明すると、老いた漁師がたったひとりで小舟に乗って出漁し、やがて餌に巨大なカジキマグロがかかる。けれども港に帰る途中、その魚を無惨にもサメに食いちぎられてしまう、という物語となる。

ヘミングウェイは『陽はまた昇る』、『武器よさらば』、『誰がために鐘はなる』など長編作家として有名だが、『勝者に報酬はない』、『キリマンジャロの雪』などの短編の方が文学的に完成度が高いものが多い(もちろん、だからと言って彼の長編小説には文学的な価値がない、あるいは小説としてつまらないというわけではないが)。

この『老人と海』も、長編作家ヘミングウェイの作品群の中では短い物語である。それだけに文章は引き締まり、けれども人生の一断片を見事に切り取り、人生の寂寥や敗北を巧みに描写する作品であると言えるだろう。

また、この作品は1952年の発表であり、ヘミングウェイノーベル文学賞を受賞する2年前の作品である(ちなみに、彼の自殺は1961年)。それまでたくさんの長編を書き続けたヘミングウェイがたどり着いた、ひとつの頂点といっても良い作品だ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

完全な敗北が老人を打ちのめす

老人の乗る舟について、物語の冒頭で次のように描写されている。あちこちつぎはぎだらけの帆をマストに巻きつけた姿は、「永遠の敗北を象徴する旗印としか見えなかった」(本書p5)。物語の冒頭から、老人に勝利が訪れることはなく、やがて必然的に敗北してしまうことが示唆されていたと言えるかもしれない。

老人と海』とは、老人が単に敗北するだけの話なのだろうか?

もちろん、そうではないはずだ。老人は敗北が運命付けられていたとしても、ひとりで海へと漕ぎ出す。そしてついに巨大な魚と死闘を演じる。四日間もひとりで巨大な魚と格闘するのだ。眠気や空腹、そして疲労とも戦いながら。そして長い戦いの果てに巨大な魚を釣り上げる。一時的ではあるにせよ、老人はひとまずの勝利を手に入れることができた。

しかし、老人の釣り上げた巨大な魚を狙って、今度は次々にサメが襲いかかる。老人はオールの柄や棍棒でサメと闘う。「人間は負けるように造られてはいないんだ」(本書p118)、「おれは最後まで闘ってやるぞ」(本書p129)。そんな闘争心を燃やし、なんとしてもサメの襲撃を食い止めようと格闘する。

けれども格闘むなしく、その魚のほとんどをサメに食いちぎられ、ボロボロの残骸だけしか残らなかった。老人には何も残らず、やはりボロボロに疲れ果てて家へ戻っただけだった。勝利は無惨にも失われ、完全な敗北が老人を打ちのめした。

老人が長い格闘の末に手にした勝利。それは誰にも目撃されることもなく、わずかな間に潰えてしまう。「なんの想いもなければ、いかなる種類の感情もわかない。いま、かれのうちにはなんにもなかった」(本書p138)。老人が抱いていた希望も自信、そして闘争心さえも打ち砕かれ、敗北を悟った瞬間である。

でも、それはとても意味のある敗北なのではないか。なぜならば、闘わないことには敗北することもありえないからだ。最後まで全力で闘わなければ手に入らない種類の敗北を老人は手に入れたのだ。

たとえ敗北を喫しようとも必死で闘って敗北する生

ところで、老人には助手の少年がひとりいた。しかし、この少年はあまりに老人が不漁続きのために、両親に他の漁師の舟に乗るように言いつけられてしまい、老人の舟には乗れない日々が続いていた。それでも、老人の助手だった少年は老人を慕っている。老人もまた、舟の上で折に触れ、何度も少年がいたらなあと思いをめぐらせる。

この少年、老人とは血のつながりはない。老人は少年が実の子どもだったらなあと思っている。少年もまた、老人が出漁する前、そして港へ戻ってきたあともずっと老人を気遣う。

ここからは完全に私の想像だが、この漁は老人の生涯で最後の出漁ではなかったか。
そして老人は少年に、自分の敗北の姿を見せることによって、何かを引き渡したのではないか。あるいはこうとも言える。老人は少年に何かを引き渡すために出漁したのではないか。

ではここでひとつの疑問が生じる。老人が少年に引き渡す何かというものは何なのか、という疑問である。

それは人が人生に立ち向かう姿、そうして生きる姿ではなかったか。たとえ敗北を喫しようとも、闘わなければ敗北すらも手に入れることはできない。死力を尽くして自分の前に立ちはだかる巨大なものと格闘する。たとえ敗北を喫するとしても、そこに人間の生の根源的な存在意義がある。闘う姿勢に生のきらめきがある。そのことを、老人は少年に引き渡したのではないか。

考えてみれば、我々人間はいつか死を迎える。死を迎えることがそのまま敗北を意味するというわけではないが、死にゆく運命に打ち勝つことは、誰ひとりできない。

いかなるものとも闘わずして終わる生よりも、たとえ敗北を喫しようとも必死で闘って敗北する生の方が、ずっと大きな輝きを放つ。『老人と海』は、そういった物語としても読めるのかもしれない。

参考

1)新潮社HP 新潮文庫老人と海
http://www.shinchosha.co.jp/book/210004/


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