誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

嵐が来る前にいたはずの場所には、もう二度と戻ることができないことを知る物語/ジョン・ニコルズ(村上春樹訳)『卵を産めない郭公』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)

嵐が来る前にいたはずの場所には、もう二度と戻ることができないことを知る物語/ジョン・ニコルズ村上春樹訳)『卵を産めない郭公』新潮文庫(村上柴田翻訳堂):目次

嵐が来る前にいたはずの場所には、もう二度と戻ることができないことを知る物語

ジョン・ニコルズ村上春樹訳)『卵を産めない郭公』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)。

ジョン・ニコルズ『卵を産めない郭公』は、ひとまずは恋愛小説や青春小説と位置付けることができる。この物語を読みはじめると、わたしたちは主人公の青年ジェリー・ペインとともに強い嵐に巻き込まれてしまう。この物語を読んでいると終始、嵐による強い風に吹かれ、強い雨に打ち付けられているかのような感覚に陥る。

そして、この物語が終わったあと、嵐がやってくる前にいたはずのはじめの地点には、もう戻ることができないことにふと気づく。わたしたちがまわりを見回しても、もうはじめにいた場所とは違った風景が、わたしたちのまわりを取り囲んでいる。そんな見覚えのない風景の中で、わたしたちは、はじめにいた場所には永遠に戻れないことを知るのだ。

この物語で強く印象に残るのが、物語の語り手ジェリーの恋の相手となるプーキー・アダムズの壊れっぷりである。プーキーは物語のはじめから破綻したもの、壊れているものを抱えている。その破綻したものや破壊的なものが、切実にプーキーを突き動かして、ジェリーを強い嵐に巻き込んでいく。

この物語で描かれるのは、ふたりの大学生の(おそらくは人生初の)恋愛だが、この破綻したもの、破壊的なものが少しずつふたりを追い詰めてゆく過程をも描き出すのだ。
Storm


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

孤独を抱えたジェリーとプーキー

この物語は、大学生ジェリー・ペインが語り手の「僕」となって、プーキー・アダムズとの過去の恋愛を振り返るという形式である。「僕」であるジェリーは、プーキーとの出会いから時系列に語ってゆく。

プーキー・アダムズは「一人っ子だったということもあり、よくある孤独な早熟女子だった」(本書p10)。そんなプーキーは自ら語る。「私がこれまでの人生で出会ったほとんどの人々は、私と仲良くなることに対して終始後ろ向きだった」(本書p28)と。このように、プーキー・アダムズは、孤独であることがわかるし、その性格の変てこさから、まわりの人々から付き合うのが面倒な人物だと思われていて、そのことを自分でも理解している人物だと言える。

実際に、ジェリーが初めてプーキーと出会ったとき、プーキーは「僕がそれまでの人生で耳にした変てこなことを全部合わせたよりも、もっと多くの変てこなことを立て続けにしゃべり出した」(本書p6)ような女の子であった。だからこそ、バスを待っていたジェリーは、プーキーのことを鬱陶しく感じ、プーキーが変てこなことをまくしたてるこの場所から、いち早くバスに乗って立ち去りたいとさえ思うのだ。

ところが、ジェリーはプーキーの変てこさに戸惑いながらもプーキーに惹かれていく。それは、ジェリーもまたプーキーと同じように、孤独だったからであろう。ジェリーも一人っ子だし、「高校時代(中略)を通して友だちというものがあまりいなかった」(本書p39)人物である。「僕はひとりでいるときがいちばん幸福だった」(本書p40)と、ジェリー自ら語るように、孤独を愛する人物だ。

ともに孤独を抱えたプーキーとジェリー。出会ったばかりのふたりは、互いに自分たちの抱える孤独に惹かれあったのかもしれない。互いの内側に、自分と似たものを見出したのだ。

ジェリーの変化が水面下で二人の関係をを変化させた

物語の前半、第4章あたりまでは、ジェリーの大学生活を中心に、プーキーとの恋愛の絶頂期を迎えるまでを描く。このあたり、少々冗長さを感じてしまうのは否めない。ジェリーの大学生活(あるいは寮生活)は、あまりにも無茶苦茶なものだし、ジェリーがプーキーを狂おしく求める気持ちを延々と語られても、青春時代を過ぎてしまった人にとっては、辟易とさえ感じてしまう。

プーキーは相変わらず変てこだし、ジェリーはそのプーキーに夢中になりすぎてしまっている。恋愛の絶頂期とも言えるだろう。ジェリーもプーキーも幸福の真っ只中にいると感じていたに違いない。ジェリーとプーキーは大学生活を送る中で恋人としての関係性をいっそう深く結んでゆく。

でも、人間は変わるし、関係性もまた変化してゆく。前半は、大学生活を送るジェリーとプーキーが大人への階段を登りつつ、それなりに変化してゆく過程を描いているとも言える。

ふたりはまだ、この時点ではそれに気づいてはいないが、決定的な変化は、ふたりにひたひたと忍び寄ってくるのである。それは主にジュリーの変化が大きいようにも感じる。ジェリーは大学の寮生活でのしごきに耐え抜き、「自分自身を際限なく、気前よく、自己破壊に向けて解き放った」(本書p95)と自覚するほどの大きな自己変革を成し遂げた。さらにそのあと、プーキーとの狂おしいほどの恋愛で、さらに「新しい人間に生まれ変わっ」(本書p137)てしまう。

そんなジェリーの変化が、プーキーとの関係性をも変化させないわけがない。孤独を愛し、友だちがあまりいなかったジェリー。運命的な女性と恋に落ちることも、まだまだずっと先にやってくるものだと思っていたジェリー。そんなジェリーは、寮生活でのしごきを通じて、強い友情を結ぶ友人ができたし、なによりプーキーに狂おしく恋している。

ジェリーのそのような変化が、プーキーとの関係に変化をもたらさないわけがない。自分たちが望むと望まないとにかかわらず、ふたりはその個人的な性格も、その関係性も少しずつ変化してゆくのだ。ただ、その変化はふたりの気づかない水面下でひっそりと進んでいる。

この前半部分の終わり近くに、プーキーの示唆的なセリフがある。初めてふたりが結ばれた直後、プーキーがジェリーに告げる言葉がある。「私は風だよ、ジェリー。君を吹き飛ばしちゃうんだ……」(本書p171)。ふたりの幸福は永遠に続くかのように見えたが、青春時代の最初の恋愛が、幸福な結末をもたらすことは、そう多くはない。後半へ折り返すと、ふたりの間に寒々としたものが吹き抜けてゆくようになる。

プーキーの自己変革への行きすぎた跳躍

物語が後半に折り返したあたりで、流血と傷の描写が出てくる。たとえば第5章では、プーキーがガラスの破片を踏み抜き、流血ののちに医師に傷口を縫い合わせてもらう。第6章では、ジェリーが駅のプラットホームで後頭部を強打し、やはり流血ののちに医師に傷口を縫い合わせてもらっている。この流血と傷の描写は何を表してるのだろうか。

そもそも、第5章でプーキーがガラスの破片を踏み抜いたのは、そもそもプーキーがコークの空き瓶を銃で撃ちまくったために、その破片が落ちていたせいだ。第6章でジェリーが後頭部を強打したのも、列車から飛び出したプーキーが、ジェリーに飛びついたせいである。第5章と第6章の流血と傷は、ともにプーキーが原因をもたらしたものだ。プーキーの抱える破綻したものや破壊的なものを表しているのかもしれない。

この第5章と第6章では、ふたりの恋愛は続いているし、プーキーは相変わらず変てこである。けれども時おり、ふたりの間に冷たいものが顔をのぞかせる。たとえば、第5章のラストでは、プーキーが「もう一度、あの最初の夜に戻れるのなら、百万ドル払ってもいいかも……」(本書p213)と、プーキーがふとつぶやく。第6章では墓石に座っていたところを、その遺族に目撃されたあと、その遺族の彼に対してひどいことをしてしまった、彼の一日を台無しにしてしまったと、プーキーはしんみりする。

このあたり、プーキーが自分自身にうんざりしているかのようでもある。プーキーの変てこさもまた、自分の孤独から逃れるためのひとつの術なのかもしれないとさえ思ってくる。そんなプーキーもまた、本当は自分自身を変えたいと願っているのかもしれない。プーキーの変てこさは、子どもじみたものだし、この先もそんな子どもじみた変てこさを抱えたまま、大人になるわけにもいかない。

わたしたちは否応なしに年齢を重ねていかなくてはならないのだ。そこでは当然、年齢にふさわしい振る舞いを要求される。プーキーはそのことを明確に言葉にしないまでも、自分の中で自分の性格がこのままでは早晩行き詰まってしまうと感じはじめたのだろう。

プーキーは自らが抱える破綻したもの、破壊的なものを手放したがっているとも言えるだろう。でも、そんな自分自身を変化させるために何をどうしたらいいのか、うまい手段をプーキー自身も見出していない。だからこそ、プーキーは流血と傷へ自分から飛び込んでいくのだとさえ言えるかもしれない。

けれども、どれも上手くはいかない。だから余計にプーキーは、第8章以降になると、自らが抱える破綻したもの、破壊的なものを手放したがっているがゆえに、破綻したもの、破壊的なものへと突き進んでゆくのだ。それはある意味では、自己変革への行きすぎた跳躍でるが、プーキーはそのような自己破壊への衝動に突き動かされてゆく。

痛々しくて少し悲しい物語

ここでは、ひとまずプーキーやジェリーよりは大人になったわたしたちの目から見た物語の「見え方」みたいなものを書いたが、プーキーやジェリーと同じくらいの大学生、あるいはもっと年下の中学生や高校生がこの物語を読んだら、どのように感じるだろうか。青春小説、恋愛小説にしては、ずいぶんとむちゃくちゃな物語だなあと思うのかもしれない。

この物語には、そのずいぶんとむちゃくちゃなものが、とにかく充満している。けれども、青春時代というものは、この物語で描かれているようなむちゃくちゃなもの、言い換えれば破綻したものや破壊的なものを、大なり小なり抱えているのだと言えるかもしれない。それはこの物語に出てくるプーキーのみならずジェリーも、そしてわたしたちも同じことなのだ。だからこそ、そこに切実な何かが存在し、その切実な何かが人間を突き動かしていく。その切実な何かがプーキーを突き動かし、ジェリーを巻き込んだのだ。

この物語で切実な何かに突き動かされるのは未成熟な人間であり、その未成熟な人間がなすことは、ひとまずプーキーやジェリーよりは大人になったわたしたちの目から見ると、ひどく間違ったことであり、恐ろしく遠まわりなことでもあるように見える。でも、それは大人になったわたしたちが通過したものであり、これから大人になる中学生や高校生はくぐり抜けていかなければならないものでもある。

この『卵を産めない郭公』は、恋愛小説や青春小説とひとまず位置付けられるだろうと書いたが、未成熟な人間たちの抱える破綻したものや破壊的なものを描く物語でもある。特に、語り手のジェリーの恋の相手であるプーキーの抱える変てこさには、破綻したもの、破壊的なものが含まれている。その破綻したもの、破壊的なものが、未熟な人間であるプーキーやジェリーを、破綻の淵にまで追い詰めてゆく。

その意味では、この物語は単なる恋愛小説や青春小説という枠内に止まらない、未成熟な人間を描いた、痛々しくて少し悲しい物語だと言えるだろう。わたしたちが未成熟だった頃を思い出しながら物語を読み進めていたわたしたちは、物語が終わる頃にはもう、嵐が来る前にいたはずの場所には、もう二度と戻ることができないことを知るのだから。
cuckoo

参考リンク

1)新潮文庫(村上柴田翻訳堂)/ジョン・ニコルズ村上春樹訳)『卵を産めない郭公』
www.shinchosha.co.jp

2)ブクログジョン・ニコルズ村上春樹訳)『卵を産めない郭公』
booklog.jp


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