誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

馬鹿のバイブル、爆笑の爆弾/フィリップ・ロス(中野好夫・常盤新平訳)『素晴らしいアメリカ野球』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)

ナンセンスと悪ふざけの濁流にただ身を任せる

『素晴らしいアメリカ野球』は、アメリカの作家フィリップ・ロスが1973年に発表した長編小説。この物語は、本拠地を失くした架空の放浪球団ルパート・マンディーズを中心に、やはり架空の大リーグである愛国リーグを舞台にした”アメリカ野球”を描いている。

本作は、解説の井上ひさしが「馬鹿のバイブル、爆笑の爆弾」と表現したような、めちゃくちゃな長編小説だ。あるいは、本書の帯にある「米文学史上最凶の悪ふざけ!」とのキャッチコピーがまさにふさわしい、やはりとにかくめちゃくちゃな小説だ。

『素晴らしいアメリカ野球』は、わたしたちをナンセンスと悪ふざけの濁流に巻き込む物語だと言えるだろう。この物語はわたしたちをいったいどこへ導こうとしているのかと、読んでいる途中で混乱と不安に陥ってしまうほどだ。

わたし自身、はじめはやたら長い語り口調のプロローグから、どうもうまく物語の世界に入り込めなかった。その理由として、語り手のスミティの罵倒語や過剰な言葉の濁流についていけなかったことがまずひとつ。次に、二十世紀初頭のアメリカ野球の知識がないので、そこで語られる野球について、いまひとつうまく理解できなかったから、というのが理由だ。

さらには、ヘミングウェイとの『素晴らしいアメリカ野球』をめぐる対話や、ナサニエルホーソンの『緋文字』、マーク・トウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を、それぞれアメリカ野球に絡めて語っているが、元ネタをすべて理解や把握をしているわけでもないので、ピンとこなかった。

以上のような理由で、プロローグを読んだ時点で「これはとんでもない本だなあ」と不安に陥った。だからこそ、ナンセンスと悪ふざけの濁流に身を任せて、一気に読むことをお勧めする。背景や元ネタを知らなくても、そこから教訓や変化や成長を読み取らなくても、過剰に押し寄せてくるナンセンスと悪ふざけの濁流にただ身を任せることでしか得られない類の読後感というものがあるはずだからだ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

とにかくめちゃくちゃな登場人物たち

登場人物たちからして、すでにめちゃくちゃである。まず第1章は、ありあまるほどの野球の才能に恵まれながらも、その才能ゆえに高飛車な態度をとり続ける投手ギル・ガメシュの話だ。ギル・ガメシュはあまりにも傲慢なため、審判さえも手に負えないほどの態度をとってしまう。判定が気に入らないと荒れてしまい、試合が中断してしまうほどだ。また、審判の方もギル・ガメシュなら大目にみるという傾向があった。

そこで、この投手対策として、野球規約を厳格に適用するための名審判を、この投手の試合担当にした。頑固一徹で判定は厳粛そのものの審判だ。けれども、ギル・ガメシュはこの審判の厳格な判定がいつも気に入らない。その怒りが最高潮に達したとき、ついにギル・ガメシュは球場で剛速球をこの審判の喉にめがけて思い切り投げ、審判を殺そうとしてしまう。もちろん、ギル・ガメシュは野球界から追放されてしまう。

物語の主な舞台となる球団ルパート・マンディーズの選手たちも、二塁手は大リーグ史上最年少の14歳の少年選手で、三塁手は大リーグ史上最年長の52歳の選手ときている。一塁手は生涯しらふでホームランを打ったことのない、全球団を渡り歩いた選手。

左腕のない外野手は、捕球するとすぐにグラブからボールを口に挟んで取り、ボールを口にくわえこんでいる間に右手からグラブを外し、素手でボールを口からつかみ取ると内野に返球しなければならない。さらには、片足のない捕手や小人のピンチヒッターまでが登場する。

このような面々が野球をするのだから、第1章に続く物語の内容もまためちゃくちゃなものとなるのは想像にかたくないだろう。事実、そうなのだ。

ではなぜ、この小説はこんなにもめちゃくちゃなのだろうか。それは、この『素晴らしいアメリカ野球』という物語は、アメリカの偉大さをコケにし、笑い飛ばす小説に他ならないからだという。

「偉大なるアメリカ」の前で闇に葬られたもの

この小説の原題は、”The Great American Novel”。つまり、「素晴らしいアメリカ小説」となる。これは、「アメリカという偉大な国にふさわしい、いつか書かれるはずのまだ見ぬ偉大な小説、という意味」(注釈p645)を含んでいるようだ。そして、「まだ見ぬ偉大な小説」が、いつか書かれるに違いないという信念や希望が、「二十世紀半ばまでは、それなりに本気で信じられていた」(注釈p645)という。

このような「まだ達成されていないけれども、とにかく理想があって、そっちに向かって進んでいく」ことは小説だけでなく、アメリカという国自体もそうでなければならないとの信念も、ある時期までやはり本気で信じられていたようだ。

解説セッションによると、この小説の書かれた1973年は、アメリカの偉大さ、強さ、正しさが大いに揺らいでいた時期であるという。ベトナム戦争末期の泥沼に陥り、ウォーターゲート事件も起こったあとにあたる。だからこそ、「素晴らしいアメリカ」「偉大なるアメリカ」の幕引きとして、書かれたものだとしている。

だからこそ、この小説はかつて存在した野球の愛国リーグを、アメリカ国家が闇に葬ったことを告発するという体裁を取っているのだろう。舞台が野球となったのは、その偉大なアメリカなるものを一番端的に表しているものがアメリカ野球だから、ということのようだ。

そのような物語が、たとえば身体障害のある(片腕や片脚の)選手や、身長が一般の人よりもずっと低い小人(物語内の表現による)を、野球選手として描いたということはどういうことなのだろう。ここからは、わたしの解釈、あるいは想像だが、そういった社会的弱者さえも「素晴らしいアメリカ」「偉大なるアメリカ」の前では闇に葬られたじゃないか、みたいなことを戯画的に告発している側面もあるのではないだろうか。

「馬鹿のバイブル、爆笑の爆弾」

もちろん、物語の中でそう明言しているわけではない。ただ、たとえば小人の野球選手を扱った第4章の導入にはこうある。「アメリカ人の博愛心に誇りを持つ人はすべて、このような異形の人間にアメリカの大衆がそそいだ愛情の物語に感動するだろう」(本書p321)と。けれども、結果として小人の野球選手は悲劇の中で野球選手としての人生を終えてしまう。

この物語は、そのような小人の野球選手が存在した球団、その球団の所属した大リーグの歴史そのものを、アメリカ政府が隠蔽したことを告発する物語だ。その構造の中で、障害者や小人に限らず、広く社会的弱者もまた「偉大なるアメリカ」の前では、その正しい姿が闇に葬られたことを暗に告発しているのではないだろうか、そういったことを戯画的に描いているのではないだろうか、みたいなことをわたしは考えた。

ただ、この物語は全体として、正面切って「その理念は本当に正しいのか?」などと、真面目に異議申し立てをしているわけではない。むしろ、「馬鹿のバイブル、爆笑の爆弾」としか言いようのない、単なる過剰なナンセンスや悪ふざけの大洪水にしか見えない。

そう言っているわたしだって、ここにある過剰なほどのナンセンスや悪ふざけの大洪水にただ流され、必死に流木か何かにしがみついているしかないので、どのあたりがパロディであり、悪ふざけであるのかを完全に把握し、理解しているのかと問われると、そのあたりはまったく自信がない。同時に何を告発し、何を暗示しているのかということだって、想像や推測の範囲を出ない。

だから、わたしは「素晴らしいアメリカ」「偉大なるアメリカ」なるものや、それへの信念、あるいは疑義について、頭では理解できても、感覚としてピンとはこなかった。けれども、1970年台前半のアメリカで、このような「偉大なるアメリカ」を戯画化した小説が発表された意味は大きいのだろう。

わたしたちはひとまず、この物語をナンセンスと悪ふざけの濁流に巻き込まれながら、その独特の味わいを味わってみるといいだろう。

余談

ところで、『素晴らしいアメリカ野球』の解説セッションは柴田元幸氏と村上春樹氏の対談(というか会話)形式になっているのだが、もともと集英社文庫版が出版されている。おそらくはそのときにつけられたであろう解説を、井上ひさし氏が書いている。

この井上ひさし氏の解説の語り口調が、「そうそう! この語り口はまさに井上ひさし!」と呼ぶにふさわしい軽妙洒脱なものになっているので、一読の価値がある。

参考

1)新潮文庫/『素晴らしいアメリカ野球』
http://www.shinchosha.co.jp/book/220041/

2)ブクログ/『素晴らしいアメリカ野球』
http://booklog.jp/item/1/410220041X

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