誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

歴史修正主義と向き合うために/吉田裕『日本人の歴史認識と東京裁判』岩波ブックレット

歴史修正主義と向き合うために/吉田裕『日本人の歴史認識東京裁判岩波ブックレット:目次

歴史修正主義への反駁

吉田裕『日本人の歴史認識東京裁判岩波ブックレット

歴史修正主義とどのように向き合うべきか」というフレーズに惹かれて読んでみようと手に取った。現代史における東京裁判の位置付けを行い、いわゆる「東京裁判史観克服論」を検証することで、歴史修正主義の限界を見てゆく一冊。2018年11月に行われた著者の講演に加筆したもの。だから、読みやすくてわかりやすい。

本書ではアジア・太平洋戦争に対する歴史認識東京裁判、そして歴史修正主義を考える上での基礎的な知識と今日的な見解を押さえることができる。具体的には「東京裁判の判決は連合国からの一方的な押し付けだ」、「GHQは『ウォー・ギルド・プログラム』を通じて日本人へ洗脳工作を行った」などといった歴史修正主義者の唱える俗論に対し、近年の研究成果を踏まえた上で反駁してゆく。

以下、各章で印象に残った点を紹介する。

戦前・戦時中の親米的なまなざし

第1章 東京裁判前史

この章ではまず、戦前の日本にとってアメリカは近代化のモデルのひとつであり、アメリカの文化を積極的に受け入れていった事実を指摘する。例えば、戦前の日本がアメリカ文化を受け入れた例として、カフェーやダンスホール、そこで流れていたジャズなどの流行が挙げられる。

アジア・太平洋戦争と言えば、戦前と戦時中を通じて「鬼畜米英」といったプロパガンダに代表されるように、日本人は反米感情に染まっていたイメージがあるが、必ずしもそうではない。むしろ、戦前と戦中のある時期まで、日本人は非ヨーロッパ型の近代化に成功した国として、アメリカを憧れのまなざしで見ていたと指摘する。

このような親米的なまなざしが、戦前はともかく戦時中のある時期(具体的にはガダルカナル島撤退までの時期)まで、日本社会にあったことが新鮮だった。本書では指摘されていないが、この日本社会の中にもともと根ざしていた親米的なまなざしがあったからこそ、戦後の占領政策に対しても従順に受け入れ、そして親米的な態度につながったのではないかとわたしは推測するがどうだろう。

一方的な押し付けではなく、日米合作の政治裁判

第2章 東京裁判について

この章ではまず東京裁判の意義と限界について説明する。その限界の中でも、東京裁判は「日米合作」の政治裁判であったのではないかとの見方が、わたしには新鮮だった。東京裁判というと、アメリカを筆頭とした連合国側が一方的に日本をさばいたというイメージがある。しかし、実は「日米が協力し合いながら、すべての責任を軍部、特に陸軍に押し付け、そして天皇を免責する」(本書p22)側面があったと本書は指摘する。

前章では戦時中のアメリカ軍による対日心理作戦が紹介されていた。日本人捕虜の尋問を通じて、非常に天皇に対する忠誠が強いことを見抜いたアメリカ軍が、戦争の責任は天皇にはなく国家指導者である軍部にあると位置づけることにとって、日本軍の士気を低下させ、戦争の早期終結を図った。この「指導者責任論」に基づき、戦後の占領政策東京裁判も行われたのだという。

アメリ国務省情報調査局が1948年にまとめた「A級戦犯裁判に対する日本人の反応」という資料にも、「肉親を奪われ、家を焼かれ、食うや食わずだった国民の多くは、被害者意識を抱いていた」(本書p33)ため、「「開戦の責任」よりも「敗戦の責任」を問う視線を被告たちに向け、連合国が日本人に代わって「代理裁判」として断罪」(本書p33)したように受け止めたと指摘する。

この流れを受けて、第2章では日本国民の被害者意識が東京裁判判決の消極的受容につながったことが指摘されている。軍部の主導する戦争に巻き込まれて、肉親を失い家を焼かれるなどの大きな被害を受けたという意味では、当時の日本人の「被害者意識」が大きいのも理解はできる。

その一方で、日本人の「加害者意識」が希薄なのが気になるし、これが現在まで尾を引く「戦争責任」の問題につながるのかもしれない。この意味ではアメリカ軍を筆頭とした連合国による「ウォー・ギルド・プログラム」もある程度は(その当初の意図とはズレた方向に)機能したのだろうと、わたしは推測したがどうだろうか。

本書ではこの「ウォー・ギルド・プログラム」は一貫性はなく場当たり的なものだったとしているが、わたしはこの「被害者意識」の大きさにはある程度、寄与したのかもしれないと思う。もちろん、本書でも指摘されているように、このプログラムが大掛かりな洗脳作戦で、現在でも日本人が呪縛されていると考えるのは過大評価だと位置づけているのは、同意するところである。

東京裁判史観克服論」の根本的矛盾

第3章 忘却と想起

本書では東京裁判はむしろ戦後史の中では忘れられた裁判であったことが指摘される。しかし1982年の「教科書検定の国際問題化」によって、保守層のあいだから「東京裁判史観を克服しなければならない」という声が上がったことがきっかけで、東京裁判が再び歴史の表舞台に引きずり出され、それをめぐる論争がはじまった流れを確認する。

しかし、保守層の論客の多くが日米同盟基軸論の立場に立つ限り、アメリカ主導で行われた東京裁判の克服するという、いわゆる「東京裁判史観克服論」の根本的矛盾を本書は指摘する。

また、歴史修正主義の一翼を担う靖国神社の支持勢力も、近年では混迷を深めていると指摘。平成の天皇・皇后が慰霊の旅を続けたことにより、靖国神社の意義、存立基盤が失われていくと、靖国神社の前宮司自身が述べていることを紹介する。

では、「歴史修正主義」が危機的な状況にあるからといって安心かと言えばそれは違うのだと、本書のあとがきで主張する。本書で繰り返し主張するように、まずはわたしたち自身の手で東京裁判というものを歴史の中に位置付けるのが必要だというのは大いに同意できる。「歴史修正主義」に対抗するためにも、その意義と限界を含めた東京裁判の位置付けの確認が必要だと思えるからだ。

ネットの情報に右往左往することなく

インターネットやSNS上において跋扈する「歴史修正主義」の主張は、あまたの事実誤認や根本的矛盾を抱えながらも日々、拡散されている。ネット上で展開される「歴史修正主義」の主張はまさに論理性さえも無視したものだ。

フェイクニュースの時代に突入した現在の状況を考えると、歴史修正主義のみならず、論理性や事実関係を無視した荒唐無稽な主張は容易には収まらないだろうと、暗澹たる気分になってしまう。

だからこそ、個人的には地道に歴史的事実を再確認し、歴史の中に位置付けてゆくことが必要であり、インターネットやSNS上で瞬時に拡散されるような、時にセンセーショナルな情報に過度に右往左往することなく、このように書籍というかたちで最新研究をキャッチアップしてゆくことも必要なのではないかと本書を読んで考えた次第だ。もちろん、ネットやSNS上にも有益な情報がたくさんあることは間違いないが。

さて、本書の著者である吉田裕氏と言えば、昨年は中公新書から出た『日本軍兵士ーアジア・太平洋戦争の現実』が話題になったことでも知られる。また、新書で手に入るものとしては『アジア・太平洋戦争』、『日本の軍隊ー兵士たちの近代史』、『昭和天皇の戦争史』(いずれも岩波新書)がある。

本書では近年の研究成果も本書の中でいくつも紹介しているので、それぞれの専門書へアクセスするための手がかりとなろう。

参考リンク

1)岩波ブックレット/吉田裕『日本人の歴史認識東京裁判
www.iwanami.co.jp


ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
管理人のブクログの本棚:http://booklog.jp/users/nobitter73
管理人のtwitterのアカウント:https://twitter.com/nobitter73
管理人のメールアドレス:nobitter73 [at] gmail.com
※[at]の部分を半角の@に変更して、前後のスペースを詰めてください。
『誤読と曲解の読書日記』管理人:のび
Amazon ほしい物リスト
https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/8GE8060YNEQV
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー