誤読と曲解の読書日記

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わけのわからなさを飲み込んで受け入れること/ルイス・キャロル(脇明子訳)『不思議の国のアリス』岩波少年文庫

わけのわからなさを飲み込んで受け入れること/ルイス・キャロル脇明子訳)『不思議の国のアリス岩波少年文庫:目次

想像が不安と恐怖を呼び起こす

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』は、「ユーモアと言葉あそびに満ちたイギリス児童文学の古典」(本書カバー)とうたわれるように、もはや内容について細かな説明を必要としない有名な物語である。

さて、わたしは大人になって初めて『アリス』の物語を本というかたちで読んだ。なぜならば、子どもの頃からずっと『アリス』に対して怖いイメージを抱いていたからである。

なぜ『アリス』に怖いイメージを抱いていたのかという理由だが、子どもの頃にディズニー版のアニメ映画を観たときに、「こんなわけのわからない奇妙な世界に迷い込んでしまうのはいやだし、自分だったらそんな世界から抜け出せないだろうな」という想像が不安と恐怖を呼び起こしたからだと思う。だから、子どもの頃のディズニー版の映画を観てからは、ずっと『不思議の国のアリス』を避けてきた。

※このあたりの経緯については、「2017年11月のまとめ」『オズの魔法使い』についての記事にも書きましたので、これ以上深くは書きません。

さて、大人の視点で読んでみても、『不思議の国のアリス』の世界は相変わらずわけのわからない奇妙な世界の物語だった。もちろん、そこには英語ならではの言葉遊びや駄洒落とユーモア、それに作者ルイス・キャロルとその身近な親しい人々とのあいだでのみ通用する冗談が満ちているから、日本語で読んでも完全にはその面白さが理解できないという理由もある。もちろん、日本語で読んでも十分に楽しめる物語であることは言うまでもないが。

けれど、上記のような理由は物語全体のわけのわからなさの理由のすべてではない。そもそも物語の展開や登場人物たちの言動それ自体が、わけのわからないものだからである。けれども、そのわけのわからなさを、ひとまず自分の中にしっかりと飲み込んで受け入れることが、この物語を読む上で大切なことではないかという思いを抱いた。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

どんどん歩いてゆけば、どこかへはつくさ

不思議の国のアリス』は、アリスがウサギを追って穴をどこまでも堕ちてゆくところからはじまるが、そのような冒頭からはじまるわけのわからない展開に不安と恐怖を感じてしまう。そんなに深い穴に落ちていったら、元いた場所に戻れなくなってしまうし、着地するときは痛いだろうなという想像を生み出してしまうからだ。

また、アリスが「ワタシヲノンデ」と印刷された紙のついた瓶の薬を飲んで、身体が縮んでしまったり、テーブルの上に置いてあった金の鍵が、小さくなったおかげで手の届かないところに行ってしまったりする。自分だったらそんな状況にどうしようもないと諦めてしまうだろうなあ、どこにも行くことができないだろうなあ、という想像も膨らんでしまう。

このような奇妙な状況に、アリスでさえ「まあ、へんてこてんだわ!」(本書p17)と、あまりにびっくりしたために、正しい言葉づかいすら忘れてしまうほどだ。けれども、このような「へんてこてん」な世界を、アリスは少しずつ受け入れてゆく。「アリスはもう絶対に不可能なことなんてめったにないと思うようになった」(本書p21)と。

たとえば、チェシャー・ネコとアリスのやりとりの場面がある(以下の「」内は、本書p109-p110より引用)。アリスが「ここからどっちへ行けばいいか教えて」とたずねると、チェシャー・ネコは「そりゃ、どこへ行きたいかってこと次第だね」とこたえる。アリスはなおも「どこだってかまわない」と告げると、チェシャー・ネコは「なら、どっちへ行ったっていいじゃないか」とこたえる。

アリスはさらに「でも、どこかへは行きたい」と訴えると、チェシャー・ネコは「どんどん歩いてゆけば、どこかへはつくさ」とこたえる。アリスは「たしかにそのとおりだわ」とチェシャー・ネコの言葉に納得する。

先に自分だったら奇妙な状況にどうしようもないと諦めて、どこにも行けなくなってしまうだろうという想像が膨らむと書いたが、アリスは奇妙な状況を「へんてこてん」な世界を柔軟に受け入れ、「どこかへ行きたい」と望み、そしてどこかにたどり着くまで歩き続けるのだ。

翻って考えてみると、わたしたちが不思議の国のような、わけのわからない奇妙な世界に放りこまれてしまったら、そのような柔軟性を発揮できるだろうか。そんなことさえ突きつけられているようにも感じた。

わけのわからない世界に触れた記憶

作者ルイス・キャロルが、『不思議の国のアリス』に込めた思いとは何だろうか。

それは、わけのわからなさを、ひとまず自分の中にしっかりと飲み込んで受け入れることの大切さではないだろうか。つまり、子どもだったわたしが『アリス』というわけのわからない世界に触れ、そのわけのわからなさを不安と恐怖とともに記憶していたように、子どもの頃に『アリス』というわけのわからない世界に触れた記憶を抱えることが大切だと、作者ルイス・キャロルはこの物語で伝えているのではないだろうか。

そして、子どもがやがて大人になったとき、『アリス』というわけのわからない世界に触れた記憶や、それについて周りの大人や兄弟姉妹に話した記憶を、ふと思い出すことが大切だと訴えているのだ。アリスがお姉さんに自分がたった今見聞きした奇妙で不思議な経験を伝えたように、そしてお姉さんがその経験をアリスがいつまでも胸に抱いていてほしいと願ったように。

目を覚ましたアリスから「不思議の国」の話を聞いたお姉さんも、目を閉じて半分夢の中へ漂うと、アリスの見た不思議の国の夢を見る。しかし、「そうやって目をとじて自分も不思議の国に来たんだと半分信じる気持ちになっていても、また目をあけさえすればすべてがつまらない現実にもどってしまう」(本書p223)ことに、お姉さんは気づく。

ここは「つまらない現実」しか見えない大人に成長してしまうことへの悲哀、悲しみ、切なさを表した場面だと言えるだろう。誰もが「不思議の国」の存在を信じる子どもだったのに、みな成長して「つまらない現実」を生きる、わたしたちのような大人になってしまうのだ。それは避けることのできない必然であり、だからこそそれを身をもって知ってしまったわたしたち大人の悲しみや切なさといった感情が揺さぶられるのだろう。

だから、お姉さんはアリスが「実り豊かな年月を数多く経て大人になっても、愛にあふれた素朴な子どもの心を、失わずにいてくれるでしょう」(本書p224)と信じているし、そうであってほしいと願っているのである。そしてそれはもちろん、作者ルイス・キャロルがこの物語に触れたすべての子どもたちに対して願っていることでもあるということは言うまでもないだろう。

参考リンク

1)岩波少年文庫ルイス・キャロル脇明子訳)『不思議の国のアリス
https://www.iwanami.co.jp/book/b269522.html

2)ブクログルイス・キャロル脇明子訳)『不思議の国のアリス岩波少年文庫
booklog.jp


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