誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

嘘やぺてんのない、真摯でやさしい言葉にあふれた物語/ライマン・フランク・ボーム(河野万里子訳)『オズの魔法使い』新潮文庫

嘘やぺてんのない、真摯でやさしい言葉にあふれた物語/ライマン・フランク・ボーム(河野万里子訳)『オズの魔法使い新潮文庫:目次

怖いイメージを抱いていた『オズの魔法使い

オズの魔法使い』は、言わずと知れた児童文学の古典である。

わたしは『オズの魔法使い』に怖いイメージをずっと抱いていた。なぜならば、ひょんなことから子どもが奇妙な異世界に迷い込んでしまうところに恐怖を感じるからだと言えるかもしれない。しかも、不可抗力で異世界に巻き込まれたのに、そこから元の世界に戻るために試練を乗り越えなければならないし、その試練を乗り越えないと元の世界に戻れなくなってしまうかもしれない、というところに恐怖や不条理を感じるからなのだろう。

わたしが『オズの魔法使い』に初めて触れたのは、おそらく実写版の映画を観たとき(小学校に入っているかいないかくらいだと思う)だが、そのときすでに、『オズの魔法使い』に心ときめく冒険映画との印象は受けなかった。ただ、こんなわけのわからない世界に迷い込んでしまうのはいやだなあと思いながら観ていた記憶がうっすらとある。なぜならばそれは、自分があのような奇妙でわけのわからない世界に迷い込んでしまったら、二度と抜け出すことができないだろうなという確信にも似た想像をしてしまうからだろう。

しかし、今回『オズの魔法使い』を読んで、そのイメージが少し変わった。友情と冒険の物語であり、海外ドラマのようにワクワクドキドキする展開が連続する物語であった。しかも、その底流には、親が自分の子どもを見守っているかのようなあたたかなまなざしがあることにも気づいた。

ただ、自分がこの物語のような奇妙な世界へとひょんなことで迷い込んでしまって、冒険をしないと故郷の町に帰れないと言われると、自分には物語の世界を抜け出す自信がないなあという不安にも似た気持ちは変わらないままだ。もちろん、それは『オズの魔法使い』の物語のせいではなく、あくまでも自分の受け止め方の問題でしかないことは言うまでもない。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

父親による子どもたちへのメッセージ

オズの魔法使い』は、もともとが作者のライマン・フランク・ボームが自分の息子たちに聞かせるために作った物語なので、全編を通じて父親が自分の小さな子どもを守るかのような親密で庇護的な、言うなればやさしくあたたかい雰囲気が底流に流れている。

たとえば、大たつまきに巻き込まれて最初にたどり着いたマンチキンの国で、ドロシーはあらゆる危険や攻撃から身を守ることのできる”しるし"を北の魔女から与えられる。冒険の旅をはじめるにあたって、ドロシーにはあらゆる危険や攻撃が待ち構えているが、それらの危険から身を守ってくれる存在がいるのだということを伝えている場面だと言えるだろう。それは親が子どもの成長をずっと見守っているのだと、人生の入り口に立った子どもたちに無条件の庇護を約束しているかのような場面だとも言えるかもしれない。

作者のボーム自身は、この『オズの魔法使い』の「はじめに」の部分で、この物語を昔の童話とは違って寓意を表すような恐ろしい事件や教訓のない、純粋に物語の面白さ自体を思うぞんぶん楽しんでほしいという趣旨のことを書いている。たしかに、寓意が込められた恐ろしいエピソードはこの物語にはない。でも、この物語には、上記のように父親が自分の子どもたちに伝えたいメッセージが随所に散りばめられているように思えた。

さて、エメラルドの都へ向けて旅をはじめたドロシーたちは、旅の途中でさまざまな危険や攻撃に直面する。そのとき、必ずどこかから誰かが救いの手を差し伸べてくれる。それは大人の目から見ると、ともすればご都合主義のようにさえ感じてしまうことも否定できない。

けれども、この『オズの魔法使い』が子どものための物語であるという前提から考えると、必ずしもそうだとは言えないだろう。自分が手に入れたいもののために、困難にもめげずに仲間と助け合って諦めないで旅を続ければ、必ず誰かが救いの手を差し伸べてくれるのだという、父親による子どもたちへのメッセージをこの物語は伝えているのではないだろうか。

そもそもドロシーはかかし、きこり、ライオンの欲しいものを手に入れるために一緒に旅をしようと手を差し伸べたことから、困難に直面しても必ずその状況を仲間たちと助け合いながら打ち破ることができたのだ。

こんなふうに困っている誰かや悩んでいる誰かに手を差し伸べれば、今度は自分が困難に直面したり悩みを抱えたりするような事態に直面したとき、必ず誰かが救いの手を差し伸べてくれると、作者のボームは父親としてまず自分の子どもたちに伝えているのだ。もちろん、ここでの「旅」の意味は「人生」の意味が込められているし、そのように置き換えることができるのは言うまでもないだろう。

このように『オズの魔法使い』は、全編に父親が子どもたちを見守るような、あたたかなやさしさが満ちる物語なのである。

嘘やぺてんのない、真摯な言葉たち

さて、ドロシーは飼い犬のトトのほか、旅の途中で出会った脳みそを欲しがるかかし、心を欲しがるブリキのきこり、勇気を持ちたいライオンとともに、ひとまずエメラルドの都を目指して旅をするのが、この物語の前半部分だ。ここにも、作者ボームの子どもたちへのメッセージが散りばめられている。

たとえば物語の冒頭で、ドロシーは東の悪い魔女を偶然にも倒してしまう。そこでマンチキンの国の人々にあなたこそ偉大な魔女だと賞賛されるが、ドロシーは舞い上がることもなく、自分を冷静に見つめている。「自分ではよくわかっていたからだ。−−−−みんなわたしを魔女だと思いこんでいるけれど、ほんとうはたつまきのせいで偶然ここにやってきた、ただの女の子なのよ、と」(本書p29)。

ドロシーのこの無欲とも言える姿勢は物語を通じて終始一貫している。まわりがどんなに自分を賞賛し、たとえ魔法を操ることができても、自分を見失わずにいることの大切さを示していると言えるだろう。物語の後半に入っての西の魔女との対決の場面では、ドロシーの手に入れた黄金の帽子までをも手に入れたいという欲に目覚め、自分を見失ってしまったからこそ、西の魔女は悪い魔女になってしまったかもしれないなという想像さえ、わたしたちの頭をよぎってしまうのだ。

また、心が欲しいブリキのきこりは、蟻一匹でも踏み潰してしまわないように気をつけながら旅路を歩いていく。それは「ブリキのきこりは自分に心がないことをよく自覚していたので、誰に対してもなにに対しても、ぜったいに無神経に接したりつらくあたったりしないよう気をくばっていた」(本書p66)からである。

そんなブリキのきこりはこう言う。「きみたちには心があるから、どんなふうに行動したらいいかもわかるし、まちがったこともしないでしょう。でもぼくには、心がない。だから気をつけなくちゃならないんです」(本書p66)と。

大人になってしまったわたしたちからすると、心があるはずの人間でさえ、自分には心がないかもしれないことを自覚して周囲に気を配っている人がどのくらいいるだろうかと、ドキッとしてしまう部分である。このように、大人になったわたしたちが思わず自分を省みてしまう場面やセリフがこの物語にはある。

さらには、オズ大王が自分のことを語る場面も個人的には印象的だった。自分の正体がバレてしまったオズ大王がドロシーたちにこう告げる場面がある。「私はほんとうは、すごくいい人なんだ。でも魔法使いとしては、出来がすごく悪い。それは認める」(本書p178)と。

そのあと、オズ大王はかかし、きこり、ライオンにそれぞれが望んでいたものを与えると約束しながら、たしかに魔法使いとしては出来が悪いが、ある意味で人間味にあふれたことをアドバイスする。嘘やぺてんのない、真摯な言葉で。

わたしは、この場面で語られる一連の言葉を作者ボーム自身の言葉のようにも感じた。後述するように作者ボームの人生は不運続きで、児童文学を認められるまではあまりパッとしない人生だった。そんな人生を送りながら子どもたちに物語を語っていた父親としてのボームの心からの言葉のようにも思えた。自分は出来の悪い人間かもしれない。でも、子どもたちへの言葉や思いに、嘘偽りはどこにもないのだと。

波乱に満ちた作者の人生

オズの魔法使い』の作者、ライマン・フランク・ボームについてはまったく何も知らなかったが、本書の訳者あとがきによると、けっこう波乱に富んだ人生を送った人物のようだ。ある意味では作者のボーム自身の人生もまた、ひとつの物語のようである。以下は、本書の訳者あとがきにあるボームの人生を要約したものである。

幼い頃のボームの家はわりと豊かな一家だったらしく、体の弱かったボームは学校に通わず、主に家庭教師に勉強を見てもらったという。そのとき、物語好きなボームは母親の聖書をはじめ、グリム童話アンデルセン童話を読み、アイルランド出身のお手伝いさんからケルトの民話や伝説を聞かせてもらったようだ。このころに、ボームの児童文学作家としての素養が育まれていったのだろう。

その後、ボームは学校に二度ほど入るが、そこに馴染めなかったり家庭の経済状態が困窮したりするなどして学校を辞めてしまう。だから、ボームはあまりきちんと学校教育を受けたわけではなかったようだ。そんな状況で成長したボームに、父親は自分の開いた劇場の運営を任せる。ボームは自分で戯曲を書き、俳優としても舞台に立ったという。幼い頃に触れた物語の素養を生かし、劇場運営を取り仕切ったのだろう。

ボームはこの頃に妻となるモードと出会う。モードはコーネル大学に初めて入った女子学生のひとり。また、モードの母親は婦人参政権運動に携わる女性で、その著書にはトルストイから賛辞が贈られたという。だからモードは、当時としては相当に知的で進歩的な女性だったようだ。このモードとの出会いが、さらにボームの教養を深めていったのだろうと思われる。

ところがあるとき、ボームの劇場が火事で焼けてしまう。ボーム一家は現在のサウスダコタ州へと移り住む。新天地に移ったボームは地方紙を発行するなど精力的に動きまわったようだ。ボームはこの地方紙で、性差による偏見をなくし性別ではなく知力や能力が報われるべきなどの主張を展開するが、これが当時としては進歩的すぎて読者の反発を買い、この地を去る羽目になったようだ。

このように、ここまでのボームの人生はわりと不運の連続だと言える。大たつまきに巻き込まれたドロシーが奇妙な世界へ迷い込み、困難と危険の連続の旅に出たように。しかし、4人の子どもを抱えるボームはここでめげるわけにもいかない。

困難に直面しても諦めない姿勢

ボーム一家が移り住んだのは、万国博覧会開催目前のシカゴ。ボームは新聞記者となるが、息子4人を育てるには収入が足りないため、陶器やガラス製品のセールスマンとしても働く。この陶器のセールスの旅の途中に思いついたお話を少しずつ書き留めて、ひさびさに帰る家で待つ息子たちに聞かせるようになり、やがて投稿した物語が新聞に掲載され、ボームは児童文学作家としての地歩を固めてゆくようになったという。

ここまで『オズの魔法使い』作者のライマン・フランク・ボームの人生をわざわざ書き出したのは、ボームの波乱に富んだ人生に興味を持ったからであるが、それだけではない。人生の前半は不運続きだったボームが幾度も困難に直面しても、それでも子どもたちのために諦めずに何度も立ち上がり、そのあいだにも子どもたちを楽しませるための物語を書き続けていた、不屈の精神とも言えるその姿勢に感銘を受けたからでもある。

不運続きで順調とは言い難い人生の前半、それでも子どもたちに物語を書き続けるボームの姿勢は、『オズの魔法使い』の主人公ドロシーが幾度の困難に直面しても諦めずにカンザスの家に戻ることを望んで、諦めずに行動し続けた姿勢に通じるものがある。ドロシーは仲間たちのために、そして作者のボームは子どもたちのために、困難に直面しても諦めずに自分の信じる道を突き進んだのだ。

オズの魔法使い』からわたしたちが学べるものは、困難に直面しても諦めずに誰かのために行動を続けることの尊さではないだろうか。作者ボームに言わせると、「いや、そんな教訓などを深読みせずに、物語の世界を純粋に楽しもう」と言うかもしれないが、わたしたち大人へと成長した読者にとっては、ボームが子どもたちに伝えたかったことを考えてしまうのだ。

参考リンク

1)新潮文庫ライマン・フランク・ボーム(河野万里子訳)『オズの魔法使い
www.shinchosha.co.jp

2)ブクログライマン・フランク・ボーム(河野万里子訳)『オズの魔法使い』新潮文
booklog.jp


ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
管理人のブクログの本棚:http://booklog.jp/users/nobitter73
管理人のtwitterのアカウント:https://twitter.com/nobitter73
管理人のメールアドレス:nobitter73 [at] gmail.com
※[at]の部分を半角の@に変更して、前後のスペースを詰めてください。
『誤読と曲解の読書日記』管理人:のび
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー