誤読と曲解の読書日記

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滑稽さと面白みの中にある物悲しさと薄ら寒さ/R・ラードナー(加島祥造訳)『アリバイ・アイク ラードナー傑作選』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)

滑稽さと面白みの中にある物悲しさと薄ら寒さ/R・ラードナー(加島祥造訳)『アリバイ・アイク ラードナー傑作選』新潮文庫(村上柴田翻訳堂):目次

誰かが誰かに語りかける物語

リング・ラードナー加島祥造訳)『アリバイ・アイク ラードナー傑作選』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)には、13の短編が収められている。訳者解説によると、リング・ラードナーの書いた短編は、120にものぼるようだ。この本は訳者の加島祥造氏が愛好し、「ラードナーの特色をもよく表わすと思える」(訳者解説p442)短編作品を選び出した『傑作選』となっているものだ。

この本を読んでいくと、わたしたちは本を読むというより、むしろ語り手たちの声に耳を傾けているかのような感覚に陥る。ここに収められた短編では、その多くが誰かが誰かに語りかける形式をとっている。だから、わたしたちは読書というよりも誰かの話を聞いているように思えてくるのだ。その点が、この傑作選の大きな特徴になっている。

また、この傑作選のタイトルでもある「アリバイ・アイク」は、この本の冒頭に収められた短編。「アリバイ・アイク」とは、とにかく何かをするたびに(それが良い結果をもたらしたものであれ、悪い結果をもたらしたものであれ)、「あれはこうだったから、ああなってしまったんだよ」と、弁解する野球選手につけられたあだ名のことある。

ここでの「アリバイ」とは、「弁解」「言い訳」を意味する。アリバイ・アイクのような人物が自分の身近にいたら、おそらくは実に腹立たしく、そして同時に滑稽に思ってしまいそうだが、語り口のおかげでユーモラスな物語となっている。

最後には、アリバイ・アイクのこれから先の人生も、その「アリバイ」のおかげで、「ああ、これじゃあ、うまくいくはずのものもダメになるだろうなあ……」と、脱力感と残念さの入り混じった予感を抱かせるものになっている。まあ、この"脱力感”や”残念さ"みたいなものが、この作品の魅力なのではあるが。

『アリバイ・アイク ラードナー傑作選』に収められた短編は、この「アリバイ・アイク」のような「実にアメリカ的な陽気な笑いに満ちた」(訳者解説p446)物語がある一方で、「人間を噛みすてるような諷刺性をもつ」(訳者解説p446)物語とに大きく分類できる。
Baseball

※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

実にアメリカ的な陽気な笑い

『アリバイ・アイク ラードナー傑作選』に収められた短編のうち、「実にアメリカ的な陽気な笑いに満ちた」(訳者解説p446)作品としては、「この話もう聞かせたかね」「ここではお静かに」「誰が配ったの?」などが挙げられる。この系統の短編の特徴は、オチで思わずニヤリとしてしまうような笑える話だ。

「ここではお静かに」「誰が配ったの?」は、他人のことや意見などおかまいなしに、とにかくぺちゃくちゃとしゃべり続ける女性が語り手となっている。その語り手の女性だけが、その話の裏に潜む重大な事実に気づいていないまま語り続け、読み手が「ああ、そういうことか」と気づいても、語り手だけが自分の無知に気づかないままでいるところに、陽気な面白さがある。

「この話もう聞かせたかね」は、他人から聞いた話を、さも自分が体験したかのように話す人物が出てくる。それは、「有名な旅行家、談話家、夕食会などの常連招待客」(本書p98)と知られているヘンリー・ワイルド・オズボーンなる人物。彼は俳優などの夕食会に招かれては、彼が旅行中などに体験したという話を面白く、人々の興味を引き付けながら話して聞かせるのだ。

オズボーン氏が他人から聞いた話を自分が体験したかのように語るのは、邪悪さや冷酷さに基づいているのではない。あくまで陽気に、そしてユーモラスさをたたえて話すのだ。さらには、話に尾ひれをつけて膨らませ、聴く人の興味をかき立てるように、オズボーン氏は話すのである。

「こういう人、現代にもいるなあ」と思わせる。たぶん、本人に悪気はないのだろうけれども、その話を実際に体験した人からみると、どこか滑稽な姿であるのが面白い。たしかに、彼は”談話家”として、あちこちの夕食会に呼ばれるのも納得できるなあという人物である。

人間を噛みすてるような諷刺性

「人間を噛みすてるような諷刺性をもつ」(訳者解説p446)方の作品としては、たとえば「チャンピオン」「愛の巣」「散髪の間に」などが挙げられる。人間の底知れぬ冷酷さ、残虐さを垣間見ることができ、背筋が冷たくなる。ラードナーが人間の闇の部分を見つめ、描き出す力量のあった作家だと、うかがい知ることのできる作品となっている。

冷酷非道なボクサーが主人公の「チャンピオン」。主人公のミッジ・ケリーは、身体の不自由な幼い弟に暴力を振るい、深いケガを負わせて家から出ていき、ボクサーとなる。ミッジはとにかく自分のことしか考えない男だ。故郷に妻がいることを伏せて愛人をつくり、妻のことがバレてしまうと愛人を追い出してしまう。また、金の取り分でもめたマネージャーも叩き出す。いずれも暴力をちらつかせて。それに加え、実家の母や弟、そして妻のことなど一切かえりみることもなく、稼いだ金をほとんど送ることもない男だ。

そんなミッジの暴力に裏打ちされた冷酷非道さもさることながら、「チャンピオン」のいちばん恐ろしいところは、ミッジのことを伝える新聞社の姿勢である。ミッジの冷酷非道さのことを正直に記事にしても、読者は誰も喜んでは読まない。むしろ、ミッジは人格者で家族思いだという「多少不正確な」(本書p93)伝記を載せるのだ。人々が求めるものを「多少不正確」であっても、記事として提供してしまう新聞社の姿勢が、わたしたちの背中に冷たいものをもたらす。

「散髪の間に」は、ある田舎町で起こった復讐話。人間の恨みや怒りに底打ちされた、冷酷で緻密な計算が、ゾクゾクする話。このあたりも、単に楽しく愉快な話を書いただけではない、リング・ラードナーの冷徹な文学者としての姿を垣間見ることができる。

「ハーモニイ」を求める姿

「ハーモニイ」は、アート・グレアムという野球選手が外野手のウォルドロンをスカウトした当時の話をめぐる物語。ウォルドロンはほとんど無名だったが、今のチームに入ったあとは、打率4割2分、ホームラン9本、3塁打12本、2塁打20数本、盗塁25の大活躍。それに加えてピアノが弾け、「すてきに歌もうまい」(本書p187)選手として、連日のように新聞で騒がれている選手だ。

レギュラーのポジションから落ちかけているアートは、凡フライをあげた新米のウォルドロンを見ただけで監督に推薦。その新米のウォルドロンはチームに入るや否や、アートのポジションを奪って活躍しているのだ。アートは自分のポジションを奪うウォルドロンをチームに連れてきた。しかも。その上に仲良く合唱をやっているのは、不思議なことだ。

それはなぜなのだろうと、記者の”ぼく”は、監督やチームメイトに真相を聞き出す。ところが、チームメイトのビルは、あの話の一番いいところを監督は知らないと言い、”ぼく”が監督から聞き出した話とは違う話を聞かせる……。

この短編の扉には、訳者注として『アメリカン・カレジ辞典』から引いた「ハーモニイ」の意味がつけてある。つまり、この短編は野球選手が単に合唱を楽しむだけの話ではなく、「人々の強調、調和」を求める姿を描いたものだと、わざわざ示している。

アートはチームメイトたちと合唱をするのを、なによりも楽しみにしている。チームメイトたちと合唱したいがために、クビになった選手の代わりを一生懸命探すし、クビ寸前の選手を試合中に一生懸命カバーするほどだ。けれども、そのクビ寸前の選手はチームを去ってしまう。アートは寂しさのあまり、自分のプレーもボロボロになってしまう。

そこで、ビルが「歌ならどんどん歌えばいいじゃないか」とアートに言うと、アートは逆にこう告げる。「おれは独りでは歌いたくはないんだ。和声合唱(ハーモナイズ)がしたいんだ」(本書p217)と。アートのハーモニイを求める一途な姿が滑稽でもあるし、悲壮感すら漂ってくる。なぜ、アートはここまでして合唱すること、つまり「ハーモニイ」を求めるのだろうか。
Chorus

人と人との調和

訳者解説によると、「人と人の間のハーモニイこそ、彼(ラードナー:筆者注)が人生において最も求めていたものであった」(訳者解説p448)ようだ。そうであれば、この物語でハーモニイを求めるアートこそ、ラードナーの姿とも言える。はたから見ると滑稽なほどに、しかし本人にとっては切実で悲壮感が漂うほどに「ハーモニイ」を求めたのは、ラードナー自身でもあるのだ。

けれども、現実の人間関係にはハーモニイが常に欠落していて、人間同士の「心と心の伝達の道は失われている」(訳者解説p448)。だから、ラードナーの短編は協調性の欠落した、他人との調和の取り方を知らない「自我と自己満足と自惚れにおちいりがちな人物が登場するのだ」(訳者解説p448)という。

そのために、ラードナーの描く物語には、滑稽さや面白みに満ちていても、どこかもの悲しいものや薄ら寒いものが含まれている。それに加え、「チャンピオン」などの物語は、人間関係における強調性や調和を求める心が欠落している人物が登場するゆえに冷酷であり、悲惨であるのだろう。

リング・ラードナーが小説を発表した時期は、「1920年代を中心とする15年間」(訳者解説p448)。つまり、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の時期で、今から80年から90年も昔のことである。しかし、この傑作選に描かれた人と人との協調性の欠落、それゆえに調和を求める姿勢というものは、今でも十分に通用するテーマだし、21世紀に突入した現在のわたしたちが直面している現実問題でもある。そこに、ラードナーの現代的意義があるというのはおおげさだろうか。

参考リンク

1)新潮文庫(村上柴田翻訳堂)/『アリバイ・アイク ラードナー傑作選』
www.shinchosha.co.jp

2)ブクログ/『アリバイ・アイク ラードナー傑作選』
booklog.jp

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