誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

善い行いが光を与える/W・シェイクスピア(福田恆存訳)『ヴェニスの商人』新潮文庫

今も色あせない『ヴェニスの商人

ウィリアム・シェイクスピアの『ヴェニスの商人』を、最近読み直した。たしかに面白い。先のストーリーが気になってページを早くめくりたくなる、というタイプの面白さがある。それに加え、善なるものや寛容を求める姿勢と、友人や夫婦といった親しい人を信頼する姿勢が、この物語を単なる面白いだけの物語にとどめることなく、一段と深みを持たせたものにしている。

簡単なあらすじを書くと、この物語はヴェニスの商人アントーニオーが友人のバサーニオーのため、自分の身体の肉1ポンドを担保に、金貸しのユダヤ人シャイロックから借金をすることがメインのストーリーとなっている。

そのメインストーリーに、ベルモントの貴婦人ポーシャの婚約者を決める三つの箱選びの話や、シャイロックの娘ジェシカの駆け落ちの話、さらには女性たちが夫の愛を試すために巻き起こす、指輪紛失のひと騒動の話が絡み合う。

ヴェニスの商人』は今から400年以上も昔に書かれたものだが、今もなお読み継がれ、劇場で上演されるのは、痛快な喜劇であることと、そこに描かれた人間の振る舞いから読み取れるものが、今もなお通用するからだろう。

この『ヴェニスの商人』から読み取れるものは次の二点だ。まず、深く抱いた復讐心が自らの身を滅ぼしてしまうということ。次に、慈悲とよい行いは人間の運命を良き方向に向けるものであるということ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

悲劇なのか喜劇なのか

ヴェニスの商人』は、ひとまず喜劇に位置付けられるが、シャイロックに焦点を当てて、これは悲劇ではないかという見解もあるようだ。

ここではこの物語が喜劇なのか悲劇なのか、深く立ち入ることはしない。シェイクスピアの演劇に限らず、演劇や物語といったものが人間の営みを反映している以上、これは喜劇であるとかこれは悲劇ではないとか、そのどちらかに単純に割り切れるものではないと、わたしは考えているからだ。

人間を喜劇的な人間、悲劇的な人間と単純に二分できないように、人間には喜劇的な面もあるし、悲劇的な面もあるし、その両方を持ち合わせている。それと同じく、喜劇の中にも悲劇的な面はあるし、悲劇の中にも喜劇的な面もある。

だから、『ヴェニスの商人』の全体の枠組みは喜劇であるが、そこに描かれるものすべてが喜劇的な要素ではない。シャイロックの立場が一転してしまうところや、娘のジェシカが駆け落ちしてしまうなどの(シャイロックにとっての)悲劇的な要素が喜劇の中に含まれているからこそ、ここに描かれた喜劇は輝くのではないだろうか。

だから、わたしたちはひとまず、この物語を喜劇として楽しめばいいだろう。ヴェニスの法廷で開かれたアントーニオーの裁判で優位に立つシャイロックが、一転して法学博士にやり込められて立場が逆転し、追い詰められてしまうという物語の喜劇的な展開が、この物語でいちばんの見所だからだ。

深い復讐心は、自らの身を滅ぼしてしまう

シャイロックなる人物自体、自分の仕掛けた罠にはまって、立場が一気に暗転してしまうという、この物語においては喜劇的な人物として描かれている。シャイロックが仕掛けた罠は、彼自身のアントーニオーに対するあまりにも強い復讐心から来たものだ。

シャイロックが言うには、アントーニオーは頼まれればタダで金を貸し、ヴェニス金利を引き下げて金貸しの仲間の邪魔をしている。アントーニオーはシャイロック自身に、またシャイロックの取引に、そしてシャイロックの正当な儲けにケチをつける人物。だからシャイロックはアントーニオーが嫌いで、いつか積もり積もった恨みをたっぷり晴らしてやろうと考えていた。そこにアントーニオーが借金を申し込んできた。シャイロックにとっては絶好の機会だ。

だからこそ、シャイロックヴェニスの法廷で、証文のとおりに借金のかたを支払えとアントーニオーに迫るのだ。シャイロックは証文どおりにアントーニオーの胸の肉1ポンドを切り取ることを強固に主張する。あくまでもアントーニオーに復讐するために。

けれどもけっきょくは、その復讐心に固執してしまったがゆえに、シャイロックは一転して窮地に陥ってしまう。アントーニオーの胸の肉を切り取るという自らが作った証文にある言葉が罠となって、シャイロックは自らその罠にはまってしまったのだ。そのような、シャイロックの復讐心から来た罠に自らがはまってしまう喜劇性(シャイロックから見れば悲劇性だが)こそが、この物語を喜劇たらしめているのではないだろうか。

善い行いが光を与える

また、『ヴェニスの商人』が単なる面白いだけの喜劇に止まらないのは、ポーシャの慈悲が存在するからだろう。ヴェニスの法廷で、法学博士に扮したポーシャはシャイロックにも慈悲を説く。「慈悲は強いらるべきものではない。恵みの雨のごとく、天よりこの下界に降り注ぐもの。そこには二重の幅がある。与えるものも受けるものも、共にその福を得る」(本書p111)と。慈悲の心でアントーニオーに慈悲を投げかけるのがよいと諭すのだ。

けれども、シャイロックはその言葉を拒否してしまう。さらにポーシャの巧みな法の解釈によって、シャイロックは一転して窮地に立たされてしまう。あれほどポーシャから慈悲の心を持って、アントーニオーから金を受け取って、事を収めよと説得されたにもかかわらず、その復讐心を一切引っ込めなかったからだ。結果としてアントーニオーは窮地から脱する。

この裁判のあと、屋敷に向かって帰る途中、ポーシャは小間使いのネリサに「善いおこないはこの汚れた世界に光を与えるのです」(本書p130)と言う場面がある。ポーシャなる人物は善なる存在として、その善を信じ、実行していこうと行動する人物として描かれる。シャイロックとは対照的な存在だと言えるだろう。

ポーシャの善い行いによってアントーニオーは窮地を脱することができ、ポーシャとバサーニオーも幸せな夫婦として出発する。物語は大団円を描いて終わる。まさに、善い行いがこの物語に光を与えたと言えるだろう。

印象に残った言葉・フレーズ

ヴェニスの商人』で印象に残った言葉やフレーズを書き記しておこう。なお、ここでの訳は福田恆存訳(新潮文庫版『ヴェニスの商人』)に依っている。

「輝くもの、かならずしも金ならず、(略)金色に塗られし墓も下は蛆の巣……」(本書p61)

ポーシャへの求婚者が、金色の箱を選んだ場面。美しく飾り立てられているものほど、その飾りの下には汚いものがうごめいている、見た目の美しさに惑わされるなと警告する。

「外観は中身を裏切るものだ−−いつの世にも人は虚飾に欺かれる。(略)世にむきだしの悪というものはない、かならず大義名分を表に立てているものだ」(本書p80)

先の言葉と通じるものがある。いくらもっともなことで飾り立てても、実はその裏にはとんでもない中身が隠されているかもしれないと警告する言葉だ。

「おのれのうちに音楽をもたざる人間、美しい音の調和に心うごかさぬ人間、そんなやつこそ謀反、陰謀、破壊に向いているのだ。(略)こういう人間を信用してはいけない」(本書p129)

シャイロックの娘のジェシカと駆け落ちしたロレンゾーの言葉。夏の夜の森の中で音楽が流れてくる場面。ジェシカは音楽を聴いて楽しくなったことは一度もないと、ロレンゾーに打ち明ける。そこでロレンゾーがジェシカに言った言葉。

なかなか過激な言葉ではあるが、美しい音楽に心を動かさない人間は信用できないというのは、感覚的には同意できる。もちろん音楽だけではなく、今では文学や絵画、あるいは映画などの芸術文化一般についても言えるだろう。

この物語について

ヴェニスの商人』は、1596年ごろに書かれたとされる。『夏の夜の夢』や『ヘンリー4世』の執筆時期と同じ頃。この年、紋章申請を行い、シェイクスピア家は晴れて紳士階級となった。

1597年の『恋の骨折り損』は、エリザベス女王が初めて観たシェイクスピア作品と推定されている。また、1598年には、この『恋の骨折り損』などの戯曲が、初めてシェイクスピアの名前入りで印刷される。

ヴェニスの商人』は、宮内大臣一座に属するひとりの戯曲作家であったシェイクスピアの名前が、広く世の中に認知される直前に書いた戯曲。

※この項は、河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中公新書を参考にした。

参考

1)新潮文庫/『ヴェニスの商人』W・シェイクスピア福田恆存訳)
http://www.shinchosha.co.jp/book/202004/

2)ブクログ/『ヴェニスの商人
http://booklog.jp/item/1/4102020047


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