誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

海外文学を読むこと

海外文学を読むこと

海外文学(の翻訳物)が読まれないらしい。
読まれないということは、売れてないということだ。

わたしは古今東西の海外文学をことごとく読破したわけではもちろんない。
人よりは多少、多いかなあというくらいだ。

それでも周囲を見回すと、海外文学の話ができる人は、片手の指で足りるほどの数しかいない。

テレビドラマや映画といったジャンルでは、海外(と言っても、アメリカやイギリス、中国や韓国に限られてくるだろうが)のものに触れる人は、けっこうな数で存在する。

だから海外のものにまったく興味がないというわけでもないだろう。

これが音楽、文学の順に海外のものに触れる人が少なくなっていくのは、まあ身近な感覚でもわからなくはない(ただ、国内外にかぎらず、テレビドラマ・映画>音楽>文学くらいの順が、わたしを含んで多くの人々にとって、触れる機会が多いというか、ポピュラーである順番ではあると思うが)。


もちろん、海外のものだから無条件に素晴らしい、ある種の“教養”として、受容しなければならないものであるというわけではない。そんな時代はもうとっくの昔に終わった。

でも、これだけグローバル化だ、英語教育が必要だと言っているわりには、もっと普通に多くの海外文学が読まれてもおかしくはないんだけどなあ、という気もしないでもない。

海外文学に触れることの一番の効用というのはなんなのだろう(まあ別に効用のために読書をするわけではないけれども)。

それは、人間というのは、国籍や民族、あるいは時代に関係なく、喜怒哀楽の感情を持つものだなあ、ということがわかることではないか。

どんな人間であっても、ちょっとしたことや些細なことで喜び、笑って、憂い、悲しみ、落ち込んで、怒って、自己嫌悪に陥ったりする。

日本人や外国人といっても、みんな俗なる存在で小市民的なところがあり、けれども一方では見返りを求めない自己犠牲や献身の精神を発揮する。

人間って、日本人も外国人も文化的・習慣的な違いこそあれ、根本的には変わらないな、ということを発見できる。それが、外国文学を読みことで得られることではないかな。

とりあえず、思い浮かんだことをメモ的に書いてみた。


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