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誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

ノートに書く

文具

このブログのメモや草稿は、キャンパスノートを使って書いている。

キャンパスノートは学生時代にずいぶんお世話になったノートだ。ただ学生の頃は(今もだけれど)、それほど勉強熱心でもなく、したがってそれほどノートを開いて熱心に勉強をしたわけでもなかった。

それなのに、今ごろになってノートを開いては何の得にもならないこのような文章を書いているのはなぜなのだろうね。

ところで岩波国語辞典には、ノートの項に「書きとめること、書きとめるもの」とある。

つまりノートは紙を束ねた物理的な存在というだけではなく、書きとめるという行為自体も、その定義に含まれているということになる。ノートに書く行為もまたノートなのだ。


さて、ノートはある意味で「時間を目にできるもの」であるとも言えると思う。

使い終わったノートや書き終えたページを後から読み返して、これまでの自分の思考を積み重ねや蓄積に立ち返ることができる。そこからまた新しい発見や発想が生まれることもある。そのように自分の過去を目にすることができると言える。

今現在使っているノートや書き込んでいるページは、最初は物理的に罫線だけが引かれた白いページだった。その空白のページに書き込んでいくにつれ、文章や図が増える様子を目にしている。現在進行形でページが自分の手によって変化、あるいは成長する様子が目の前で繰り広げられているとも言える。


まだ使っていないノートやページを目にすると、自分はこれから先、どんなことをこのノートに書いていくのだろうという楽しみも湧く。何も書いていない白いページの広がりが、書くという行為や書こうという意気込みを誘っているようにさえ思える。

ノートが「時間を目にできるもの」というのは、こういう意味である。
過去や現在、そして未来までそのページの上に現れる、ということである。


ノートは主に学生の勉強、それに仕事上のメモや記録などに使われることが多い。

けれども今、わたしがブログの草稿としてノートを使うのは、勉強や仕事のような課題やノルマがあるわけでもない、ノートを使うも使わないもまったく自由な意志からだ。

だからこそ、ノートを開くことにある種の楽しさを覚えるのかもしれない。


ノートという物理的な存在が、ノートに書くという行為を誘う。
そんな感覚を学生の頃に抱くことができたら今ごろは、という思いを少し抱きながら、わたしはノートを今日も開く。


twitterのアカウントは、nobitter73です。