日誌に近い日記の話
わたしの日記についての続き。
今回は、その日記に書いている内容について、ちょっと深入りして、ここに書いておきたい(そんな需要など、あまりないと思うけども、ひとつの記録として)。
自分の日記につけている内容は、大きく2つにわかれる。
「その日知った新しい知識やものの見方・考え方」
まずひとつ目は「その日知った新しい知識やものの見方・考え方」。
日記に書き込むことは、これがほとんどだ。これは新聞、テレビ、ネット、読書、他人との会話で、初めて知ったことを記録するもの。
たとえば、今年3月13日付の朝日新聞オピニオン面に、国連事務次長補のイワン・シモノビッチ氏が文章を寄せていた。
その文章は南スーダンにあるという「不処罰の伝統」についてのもの。
※元のタイトルは、『許されぬ人権侵害の不処罰』
この文章の中で南スーダンの参謀長の「我々が意見が一致しないとき、叫ぶ(シャウト)のではなく、射撃(シュート)する。暴力の文化があるのだ」という言葉を引用し、民族対立による虐殺などの暴力に対して、その際の犯罪に対する責任はほとんど問われないという「不処罰の伝統」が、南スーダンにあるという内容だった。
とりあえずは民主主義国である日本にいるわたしのような日本人の感覚からすれば、意見が一致しない時に相手を撃つという感覚は、それ自体すごいとしか言いようがない。
意見が一致しなければ相手を撃つという考えをナチュラルに持つ人々が、世界にはいるのだなということを書き残しておこうと思ったので、この日の日記に書いた。
「その日出会った印象的な言葉やフレーズ」
ふたつ目は、「その日出会った印象的な言葉やフレーズ」。
これはひとつ目の「その日知った新しい知識」と重なると思うが、そのへんの線引きと言ったものに明確な基準はない。とにかく印象的な「言葉やフレーズ」を抜き書きするもの。
たとえばちょっと前に、村上春樹の『パン屋再襲撃』を再読したのだが、その中の一節、「世の中には正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、正しくない結果をもたらす正しい選択がある」というフレーズを、その日の日記に書き写している。
面白い考え方だし、印象的なフレーズでもある。もしかしたら、何かの機会に使うかもしれないし、使わないかもしれないが、そういったものを書き残しておこうと思って書いたのだ。
あくまでも「記録」として残すために
以上のように、わたしの日記は、気持ちや感情を書き残すための「日記」というよりは、事実や記録をつける「日誌」に近い。
あとは、その日に何があったのかという記録も少しは書く。これも個人的なことではなく、「まどみちお氏死去」とか、「伊予灘で震度5強の地震発生」とか、そういったニュース的なことを一文、書き添えておく。何もなければ書かない。
そうすることによって、どんなことが起こった日に、自分はどんなことを印象的に思ったのか、どんなことに興味を持ったのか、ということが「記録」として残せるからだ。
残りは、こんなことがあった、どこに行った、誰と会った、ある人がこんなことを言っていた、みたいなことを、客観的な記録としてつけておくこともある(数としてはあまりないけれども)。
そんなふうに日記を書いている。
twitterのアカウントは、nobitter73です。