誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

日記をつけて1年が経過した

実は昨年の正月から日記をつけはじめている。
だから今は、わたしが日記をつけはじめて1年と3ヶ月が経過したことになる。

手元の辞書(岩波国語辞典)によれば、「日記」とは「毎日の出来事や感想などを書いた記録、日誌」とある。
「日記」の説明の中に「日誌」とあるが、「日記」と「日誌」の違いってなんなのだろうと、再び辞書をめくった。

それによると、「日誌」とは「(後日の資料にするため)毎日の出来事・行動を記録したもの。日記。「航海ーー」△多く、公的なものを言う」。

「日誌」と「日記」

辞書が用例に掲げている「航海日誌」は「公的なもの」だ。たしかに「航海日誌」を「航海日記」とは言わないし、「業務日誌」とは言っても「業務日記」とは言わないような気がする(気がするだけで、実際はそれらの「日誌」を「日記」と読んでいるところだってあるだろう)。

辞書による「日誌」の説明には、わざわざ(カッコ)付きで「後日の資料にするため」ともあるし、「出来事・行動を記録したもの」ともあり、この説明では、どちらかと言えば客観的な内容を記述するというニュアンスが強い。

これに対して、「日記」は「毎日の出来事や感想など」とあるように、どちらかというと「感想など」を交えた主観的なもの、私的なものというニュアンスが出ている。

この「感想」を「感情に基づいた自分の思い」という風に解釈するならば、自分の日記はどちらかと言うと、「日記」というよりは、「日誌」に近いものかもしれない。

というのも、わたしの日記には「感想」と言えるものは、まったくと言っていいほど、書いていないからだ。

感情を書かない日記

では、自分の日記にいったい何を書いているのかと言うと、できるだけ主観的な感情を排した客観的な事実や記録などを書くようにしている。

例えば、こんなことがあった、どこに行った、誰と会った、ある人がこんなことを言っていた、みたいなことから、その日始めて知った知識や読書などで出会った印象に残った言葉などだ。

わたしが日記に、客観的な事実や記録などを主に書くのは、そもそも日記に喜怒哀楽といった、その時の感情を書くと、「後で読み返した時や、誰かの目に触れた時に、感情を赤裸々に書くと恥ずかしい」という意識が先立つからだ。

それに加えて、そういった感情を、まさに感情の赴くままに書き連ねていくと、むしろ上手く言葉に言い表すことができず、その「勘定をうまく言い表せないこと」そのものに対して、フラストレーションを感じてしまい、日記を書くことから自分を遠ざけてしまうような気がするからという理由もある。

もちろん、その時に感じた様々な感情を書いておいた方が、後で読み返した時、「あの時、あのことに、あんな感情を抱いていたのか」というような感慨を抱き、それもまた、ある意味で人生におけるひとつの体験になるかもしれない。

過去の自分が抱いた感情は、プラスのものもあれば、マイナスのものだってある。
日記を書いた時点で抱いていたプラスの感情だって、後で読み返せば、「あの時の自分はこんなに浮かれていて恥ずかしいな」と思うことがあるかもしれない。

そういうのは、いささか自意識過剰かもしれないが、主観的な感情を書いてしまったばかりに、自分の書いた日記を読み返すことができないのなら、それは日記を書く意味があまりないような気もするし、むしろ日記が続かなくなってしまう理由のようにも思うのだがどうだろうか。

客観的な出来事の記録だけを書く方が日記は続く

それでも客観的な出来事の記録(例えば、こんなことがあった、どこに行った、誰と会った、ある人がこんなことを言っていた、みたいなこと)を書き続けていると、後で読み返した時、あのとき、こういうことに自分は興味や関心を抱いていたのか、ということが確認できて、それはそれで面白い。

私の日記はそういう意味では、「日記」というよりは「日誌」と呼ぶべきものかもしれないが、下手に感情を書き連ねるよりは、客観的な事実や記録を確報が日記が続くと思うのだが。

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