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誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

辞書という楽しみ〜増井元『辞書の仕事』岩波新書

本書を読んだ後では、辞書を引くことがより楽しく豊かなものになること間違いなしと言っても過言ではないだろう。

辞書を使う目的は、言葉の意味や使い方を調べることだ。
しかし本書を読んだ後は、そのような実用的な使い方にとどまらず、辞書そのものを読む、言い換えれば辞書を読書することも、辞書のページを開くひとつの大きな目的となるだろう。

「辞書の仕事」とは

本書はタイトルどおり「辞書の仕事」にまつわるあらゆることを、わかりやすい口調で紹介するエッセイ。

著者は岩波書店の出版する『広辞苑』や『岩波国語辞典』などの各種辞書の編集に、30年以上携わった経験を持つ。

その経験を基に、本書では辞書に収録する言葉の集め方や意味の記述の方法、用例の採取や取り上げ方、さらには説明のための図版や辞書に使用する用紙に至るまで、辞書の編集者とは具体的にどのような仕事をするのかということを語っている。

同時に辞書を楽しむ方法や遊び方から、そして岩波の『広辞苑』をはじめとする、各社が出版する国語辞典類への評価まで、辞書に関するあらゆる事柄についても言及する。

豊かな楽しみとしての辞書

辞書づくりの裏側を知ると、今まで当たり前に眺めていた辞書の言葉たち、見出しや意味や用例のひとつひとつが、辞書の仕事に携わる人々の奮闘や努力の結晶のように思えてくる。

たとえば本書では「築く」「仰ぐ」「明るい」という言葉を挙げ、これらの意味をどのように書き、用例としてどんな使い方を示すのかを読者に問い、著者だったらどう記述するかを解説する。

「築く」の意味を自分だったらどのように説明し、どのような用例を挙げるか。
実際にそう考えてみると、これは一見簡単なようで、かなり難しい。
いったいどんなものが「築く」ものとなるのか。あるいは、構造物を築くこと以外にも、「築く」ものがあるかもしれない。

そんなことを考え始めると、自分の中に漠然と存在する「築く」という言葉の概念がたちどころに揺さぶられ、心もとなささえ感じてしまう。

そういった例を通じ、日常的にわたしたちが目にする言葉についても、辞書では意味や用例の書き方が厳密に考え抜かれていることが示される。

そしてそのような身近な言葉はもちろん、わたしたちが日常では目にすることのない使用頻度の低い言葉、辞書を見て初めて目にするような言葉も、また同様だということがわかる。

初めて目にするような言葉の例を挙げると、「しずもる」「たほいや」「すらんがすてーん」など。これらの言葉も誰かが使い、その言葉や使われ方を書きとめ、その言葉は何を指すのだろうと調べた人がいたからこそ、『広辞苑』に収められた言葉なのだ。

そのような辞書編集の裏側を知ると、それらの言葉の意味や用例、語源などの記述が、まるでひとつの物語として、わたしたちに語りかけてくるようにさえ思えてくる。


本書を読んで、そう思えるようになれば、辞書が単に実用を目的とする書物から、読むことの楽しみを与えてくれる読書の対象となり、もはや辞書を引くことや辞書を読むことは、ひとつの豊かな楽しみとなるではないだろうか。

本書は、辞書をそういう存在に変えてくれる一冊であると言える。

辞書遊び

以下は余談。

個人的に辞書、特に国語辞典や漢和辞典は好きだ。

国語辞典なら言葉の意味を知る時に開くし、漢和辞典なら漢字を調べる時に開く。
これは言葉の意味を知りたい、漢字を知りたいという必要に迫られての行為で、誰もがそのようにする、辞書のスタンダードな使い方だと思う。

わたしの場合はそれだけではなく、ある言葉を引いたら、それに関連する言葉や、意味や解釈、語源で気になった別の言葉を引き、さらにそこから気になった言葉を調べもする。

これは何かの必要に迫られての行為ではなく、単なる楽しみとして行うもの。
どこから読み始めてもいいし、どこで読み終わってもいい、そして読んだ分だけ、新しいことを知ったという満足感を得られる、自由な読書だと言っても良いかもしれない。


そういう辞書の使い方は、どうも「辞書遊び」というらしいことを本書で知った。

「辞書遊び」とは、辞書を「引くのではなく、読む」遊びのこと。
何のルールもない、「一人で、自分の時間の都合に合わせて、自由に楽しむ」、上記のような遊びだという。

そういった遊びは、何かを生産するでもなく、創造するでもなく、社会に貢献するわけでもない。どちらかと言えば、時間の浪費に属する所為ではある。

けれども決して時間の損をしたという気分は起こらない。

本書でもそのような「辞書遊び」が、「知的に楽しむ感覚をはぐくみ、世知辛さやせせこましさの対極にある、ゆったりした物の見方を育てるのではないか」とみている。

これにはわたしも大いに同意。

「辞書遊び」は、生産性や効率性といったものになんら寄与するようなものではないが、そのような言葉の世界に分け入る、言わば豊饒な「遊び」の部分を通じて、人間としても「はば」がでてくるのではないか。

辞書というのは、実用的な目的に限らず、実に豊饒な楽しみをもたらしてくれるのだ。


twitterのアカウントは、nobitter73です。

【参考】

岩波書店『辞書の仕事』紹介ページ
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1310/sin_k735.html

BOOK asahi.com 著者に会いたい 著者インタビューページ
http://book.asahi.com/reviews/column/2013112000009.html