誤読と曲解の読書日記

読書の感想を書く日記です。あと、文具についても時々。

伊東マンショ肖像画/遠藤周作『王の挽歌』(上下巻)新潮文庫

伊東マンショ肖像画

昨日の日曜日、宮崎県立美術館で公開されている、伊東マンショ肖像画を見に行った。

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あこがれの書見台、「今月のまとめ」はじめました/9月のまとめ

「今月のまとめ」はじめました

この『誤読と曲解の読書日記』は、今月から毎月末に「今月のまとめ」を更新します。内容はその月に更新した記事のまとめ、というそのままの内容ですが。。。

ただ、今月更新した記事をまとめただけでは物足りないので、なにか読書や本にまつわる話でも書きます。

さて、「今月のまとめ」をはじめた理由ですが、もうひとつ運営している映画の感想を書くブログ『誤読と曲解の映画日記』の方でも「今月のまとめ」を掲載しているので、こちらの読書の感想を書くブログでも「今月のまとめ」をはじめようかなと、思い立ったわけです。

また、今月はこの『誤読と曲解の読書日記』を、はてなダイアリーからはてなブログに引っ越しさせたので、「今月のまとめ」をはじめるいいタイミングかなと。こちらはあまりいい理由になってないような気もしますが。

そんなわけで、「今月のまとめ」もよろしくお願いいたします。

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馬鹿のバイブル、爆笑の爆弾/フィリップ・ロス(中野好夫・常盤新平訳)『素晴らしいアメリカ野球』新潮文庫(村上柴田翻訳堂)

ナンセンスと悪ふざけの濁流にただ身を任せる

『素晴らしいアメリカ野球』は、アメリカの作家フィリップ・ロスが1973年に発表した長編小説。この物語は、本拠地を失くした架空の放浪球団ルパート・マンディーズを中心に、やはり架空の大リーグである愛国リーグを舞台にした”アメリカ野球”を描いている。

本作は、解説の井上ひさしが「馬鹿のバイブル、爆笑の爆弾」と表現したような、めちゃくちゃな長編小説だ。あるいは、本書の帯にある「米文学史上最凶の悪ふざけ!」とのキャッチコピーがまさにふさわしい、やはりとにかくめちゃくちゃな小説だ。

『素晴らしいアメリカ野球』は、わたしたちをナンセンスと悪ふざけの濁流に巻き込む物語だと言えるだろう。この物語はわたしたちをいったいどこへ導こうとしているのかと、読んでいる途中で混乱と不安に陥ってしまうほどだ。

わたし自身、はじめはやたら長い語り口調のプロローグから、どうもうまく物語の世界に入り込めなかった。その理由として、語り手のスミティの罵倒語や過剰な言葉の濁流についていけなかったことがまずひとつ。次に、二十世紀初頭のアメリカ野球の知識がないので、そこで語られる野球について、いまひとつうまく理解できなかったから、というのが理由だ。

さらには、ヘミングウェイとの『素晴らしいアメリカ野球』をめぐる対話や、ナサニエルホーソンの『緋文字』、マーク・トウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を、それぞれアメリカ野球に絡めて語っているが、元ネタをすべて理解や把握をしているわけでもないので、ピンとこなかった。

以上のような理由で、プロローグを読んだ時点で「これはとんでもない本だなあ」と不安に陥った。だからこそ、ナンセンスと悪ふざけの濁流に身を任せて、一気に読むことをお勧めする。背景や元ネタを知らなくても、そこから教訓や変化や成長を読み取らなくても、過剰に押し寄せてくるナンセンスと悪ふざけの濁流にただ身を任せることでしか得られない類の読後感というものがあるはずだからだ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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まるで悪夢を見るような虚構/S・ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』河出文庫

読書を通じて悪い夢を見る

スティーブン・ミルハウザー岸本佐知子訳『エドウィン・マルハウス あるアメリカ作家の生と死』河出文庫。本書はアメリカの作家スティーブン・ミルハウザーの長編小説第1作目。

本書は「子供によって書かれた子供の伝記」(訳者あとがきp526)の形式をとった小説である。タイトルどおり、本書の主人公はエドウィン・マルハウスという名の少年。エドウィンは10歳でアメリカ文学史上に残る傑作小説『まんが』を書きあげたあと、11歳で死んだ。

そのエドウィンの伝記(つまり本書)を書いたのは、エドウィンの住まいの隣に住んでいたジェフリー・カートライトなる11歳の少年である。生後6か月と3日のジェフリーは、生後8日目のエドウィンと出会った瞬間から、エドウィンの観察者となることを決意する。それ以降、ジェフリーはエドウィンの生涯を観察し続ける。そういうわけで、本書はこのジェフリーによって書かれた伝記という体裁をとる小説だ。


ところで、本書にはこんな一節がある。「世界は人の数だけあるが、悪い夢は誰のも似通っている」(本書p173)。これはどういう意味なのだろうか?

本書は子どもの世界を描いたものだが、そこにはわたしたち大人が想像するような、単純な明るい世界は描かれていない。むしろ、その根底にはほの暗いもの、もっと言えば死の匂いさえ漂っている。そして、そのようなほの暗いものや死の匂いといったものが、本書に登場する子どもたちを次々に連れ去り、奪ってしまうのだ。

本書を読み続けていくと、まさに悪い夢を見ているような気分に陥る。本書に登場する子どもたちは、濃密な暗黒とも言えるような描写をくぐった末に次々に消えてしまう。それも不穏で残酷な消え方で。本書は、読書という行為を通じて悪い夢を見ることを、わたしたちに疑似体験させているとも言えるだろう。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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中上健次やジャズを知らなくても/中上健次『路上のジャズ』中公文庫

ひりつくような青春時代の背景に流れていたジャズ

中上健次『路上のジャズ』中公文庫は、中上健次のジャズに関するエッセイを中心に、詩や短編小説を一冊にまとめたもの。また、巻末には、インタビューを収める。中上健次の青春時代が、いかにジャズに傾倒していたか、うかがえる一冊だ。

冒頭の”まえがき”に相当する部分には、こんな一節がある。「ジャズは部屋に持ち込むものではなく、野生のものであり、「リラックスィン」を聴いたその頃の私も、野生だった」。ここでの「リラックスィン」とは、マイルス・デイビスのアルバム『Relaxin'』のこと。

第1部の「路上のジャズ」は、中上健次がジャズと一体化していた若い頃の日々(18歳から23歳くらいまで)をつづったエッセイだ。1960年代の新宿歌舞伎町のジャズ喫茶の雰囲気が漂う部分。中上健次のひりつくような青春時代の背景に流れていた雑音混じりのジャズレコードの音、そして歌舞伎町の喧騒が聴こえてくるようだ。

中上健次は「ジャズは、単に黒人だけのものではなく、飢えた者の音楽である」(本書p22)という。また、「路上のジャズ、野生のジャズを聴くには、町が要るし、その飢えた心が要る。語るにしてもそうである」(本書p23)。

本書は、飢えた心を抱えながら1960年代の新宿という町で生きる、若かりし頃の中上健次の軌跡をたどることができる。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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